暇孔明です。
今回は、三国志を世に広めた
きっかけともいうべき羅貫中の小説(と言われる)
『三国志演義』のあらすじを語りましょう。
吉川英治さんの現代小説「三国志」や、
吉川三国志をベースに描かれた横山光輝さんの
漫画「三国志」もこの演義がベースですので、
「三国志」を楽しむため、演義を知って損はありません。
演義のベースとなった「歴史書」である、
『正史・三国志』のあらすじや、演義と
正史の違いなどについては別で解説しますね。
[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]「三国志」に登場する主要人物も、出来るだけ挙げていきましょう![/word_balloon]
三国志演義のあらすじ:黄巾の乱と後漢の衰退
プロローグ:後漢末~黄巾の乱まで
時は西暦180年代。
当時中国を支配していた統一王朝である
「後漢王朝」は無残なほどに衰えておりました。
国内は飢え、北方ではたびたび騎馬民族の
襲来に悩まされており常に財政難・・・。
そんなボロボロの後漢王朝ですが、
宮廷や皇帝の周りは権力闘争と汚職に明け暮れる日々。
そんな中、ついに民の不満は爆発し、
「黄巾の乱(こうきんのらん)」
と呼ばれる大規模な農民反乱を招きます。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]太平道の信徒たちは、「黄色い頭巾」を頭に巻き、仲間の証としたことから「黄巾の乱」「黄巾賊」の呼び名が定着しました。[/word_balloon]
黄巾の乱(こうきんのらん)は、
「太平道(たいへいどう)」
という新興宗教のリーダーであった
「張角(ちょうかく)」
が主導していました。
この反乱は、当時中華の主要地域だった
「中原」「河北」の大部分を巻き込み、
後漢の首都の洛陽にまで迫る勢いを見せたのです。
さすがに慌てた後漢王朝は、直属の軍はもちろん、
地方豪族や軍閥、義勇軍を含めた官軍を組織し、
黄巾の乱に対処していくことになるのです。
演義の主役:劉備・関羽・張飛の「桃園の誓い」
所変わって、中国最北部にある幽州。
後漢王朝の衰えぶりと、民の苦しみに
人一倍心を痛めている青年がいました。
それが、この物語の主人公である
「劉備(りゅうび)」です。
実は彼は、後漢王朝と同族の「劉氏」の生まれ。
義勇兵募集のお触れを見ていた彼は、
国の危難に対して「何かしなければ」と正義感を燃やします。
そこで彼は、
張飛(ちょうひ)
関羽(かんう)
という二人の豪傑に出会いました。
意気投合した三人は、漢王朝の血筋である劉備を
「長兄」として立て、義兄弟の契りを結びます。
これが世に言う「桃園の誓い」です。
義勇軍に参加した桃園三兄弟は、
黄巾討伐で見事な戦果を挙げます。
劉備達が初陣を飾っているころ、
同じく黄巾討伐に活躍した男達がいました。
後に魏国を立てることになる
曹操(そうそう)、
呉国の「始祖の始祖」ともいえる
孫堅(そんけん)などです。
この黄巾の乱(こうきんのらん)により、
後の「三国志」の主役となる人物達が
表舞台へと躍り出たのです。
[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ここまでのまとめ・・・
後漢末、黄巾の乱が勃発。
国の行く末を案じて立ち上がった劉備は関羽・張飛と桃園の誓いを結び、義勇軍として乱の討伐に参加します。[/word_balloon]
黄巾の乱終息。しかし根本的な問題は解決されなかった。
地方豪族・軍閥、そして後漢に残っていた
名将たちのおかげで黄巾の乱を鎮圧した後漢王朝。
が、そもそもの乱の原因である政治腐敗は
一向に改善されることはありませんでした。
また、今度は黄巾の乱討伐に動員した、
「地方軍閥」や「豪族たち」の力も強まり、
董卓(とうたく)や劉焉(りゅうえん)のように、
後漢に見切りをつけて独自の勢力を築く者も出てきます。
ですが、
朝廷はこの迫りくる危機に対応するどころか
「宦官」と「外戚」の二つの勢力に分かれ、
内ゲバの真っ最中だったのです。
後漢における「宦官」と「外戚」の争い
当時、後漢の歴代皇帝は、初代光武帝の後、
不自然なほどに短命な皇帝が続いていました。
そのたびに、皇帝の妃やその親戚である
「外戚(がいせき)」派の勢力と、
主に後宮(日本でいう大奥)を取り仕切る役人である
「宦官(かんがん)」派の勢力が、
皇帝後継者の決定権や新帝即位後の発言権を
巡って争っていたわけです。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]その争いは酷いもので、
時の外戚のボスによって幼い皇帝が毒殺されたり
宦官の陰謀で知識人や政治家が多数投獄・処刑されたり
という、えげつない事件もしばしば起こっています。[/word_balloon]
黄巾の乱当時の皇帝であったのは
「霊帝(れいてい)」。
彼は先代までの皇帝同様、若くして即位したため、
十分な発言力を持てず外戚や宦官を抑えられません。
そんな背景もあって、
黄巾の乱を鎮圧したにもかかわらず、
後漢王朝の衰退は加速していくのでした。
[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]まとめ・・・
黄巾の乱討伐には成功した後漢王朝。
しかし、地方豪族や軍閥が台頭。根本問題である社会不安に後漢王朝は対応できません。
後漢王朝ではまたもや宦官派と外戚派の対立が激化します。[/word_balloon]
霊帝が没。外戚派と宦官派による血みどろの争い、そして少帝逃亡事件
このころ、外戚派のトップだったのは、
「何進(かしん)」
という人物。
精肉屋の生まれながら、
美人の妹を「玉の輿」で霊帝に嫁がせたことにより、
一気に後漢王朝の外戚として権力者になった男です。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]三国志界隈で「肉屋」と言えば、だいたい何進のことを指します(笑)[/word_balloon]
一方、宦官派のトップは
「十常侍(じゅうじょうじ)」
と呼ばれた、当時の宦官達の中でもっとも
権勢を振るった十人から成るグループ。
両者は当初、何進の妹・何太后の結婚に関して
協調関係を結んでいたこともありました。
ところが、
現皇帝の「霊帝」が後継者を明言しないままという、
最悪のバトンタッチともいえるパターンで世を去ると、
元々「仮想敵」同士である宦官派と外戚派は対立を強めます。
若くして亡くなった霊帝には、
二人の後継者候補となる息子がいました。
一人は、幼くして母を失ってはいたものの、
霊帝の母・董太后(とうたいごう)に養育されていた
「劉協(りゅうきょう)」
もう一人が、何進の妹・何太后(かたいごう)の子である
「劉弁(りゅうべん)」です。
当然ながら、外戚の何進としては、
自分の妹が生んだ劉弁を皇帝にしたい。
外戚派の権力増大が気に入らない宦官派は、自分達の権力を強めるためそれを阻止したいわけです。
宦官達は、何進ら外戚派に対抗すべく、
「劉協&董太后」サイドに味方をします。
ドロドロとした暗闘の結果、
最終的に何進は甥の「劉弁」を「少帝」として
無事に即位させることには成功しました。
しかし、「何進」はその後、妹の何太后を抱き込んだ宦官達の罠によって暗殺されます。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]元々、何太后自身が宦官の協力で皇后になれた恩もあるので、何進兄妹と宦官は非常に複雑な関係にあったのです。[/word_balloon]
殺された何進は当時、後漢の「大将軍」のポストに就いていたため、その下には多数のアンチ宦官の将が揃っていました。
アンチ宦官派の武将達は、何進暗殺に激怒して挙兵、報復として宦官2千名余を皆殺しにしてしまうのです。
この際、宦官虐殺を指揮したのが曹操らの前半生のライバルとなる
「袁紹(えんしょう)」
「袁術(えんじゅつ)」
などでした。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]彼らは「四世三公」、すなわち後漢の最高大臣クラスを四代続けて歴任してきた「袁家」の生まれで、三国志前半の重要人物として頻繁に登場することとなります。[/word_balloon]
さて、見方によってはこの混乱で、後漢王朝を牛耳っていた外戚・宦官が一度にいなくなって良かったと思うかもしれません。
当時の人々もそう思いたかったことでしょう。
が、宦官討伐に関わった者達はこの混乱の中、少帝に都から脱出され、行方が分からなくなるという大失態を犯してしまったのです。
皇帝の身に何かあれば「大変」どころの騒ぎではない。
必死で皇帝の身柄を探す袁紹らでしたが、彼らより先に後漢皇帝・少帝一行を発見し、誘拐に近い形で「保護」した男が現れました。
黄巾の乱で活躍し、力を付けた地方軍閥の一人、
「董卓(とうたく)」
という人物です。
この「董卓」は先にも言ったように、黄巾の乱で活躍した後、独自の勢力を伸ばしつつあった軍閥で、中国北西部の涼州を中心に勢力を拡大していました。
その力を利用しようとした何進が、死ぬ直前に宦官討伐のため彼を都に呼び寄せていたのです。
しかし、何進は董卓の到着前に宦官に殺されてしまい、争いから逃げてきた少帝が董卓の目の前に現れたのでした。
まさに棚ぼた式に権力の旗印を手に入れた董卓。
このチャンスを董卓は、後漢王朝にとってはある意味最悪の形で活かすことになります。
そのころ劉備達は・・・
黄巾の乱討伐に功績を上げた劉備達ですが、軽く見られた彼らが褒美として後漢王朝からもらったのは、「安熹」という小さな県の長官職だけでした・・・。
しかし、劉備は小さな領地なりに善政を布き、「民から慕われる才能」を見せていきます。
ところが、県を観察にやってきた役人は、劉備が賄賂をくれないという理由で逆ギレし、「劉備に関する嘘の悪評」を上に報告します。
その仕打ちにブチ切れたのは、桃園三兄弟でも最も血の気が多く、曲がったことが大嫌いな「張飛」でした。
張飛はその腐敗役人のところへ凸し、ボコボコにぶちのめしてしまうのです。
「すみませんでした!」と命乞いする役人でしたが、劉備は張飛を止めると「もうここに居ても無駄」と悟り、県令の職をあっさり返上して安喜を去るのでした。
演義の物語において、この劉備の無欲さが、後々まで彼自身を苦しめることになります。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]なお、「正史」劉備伝でも、役人とのいさかいの逸話があるのですが、この時役人をボコボコにしたのは張飛ではなく劉備自身。[/word_balloon]
そして、劉備の学友(先輩)で、「白馬将軍」としての名声もあった、公孫瓚(こうそんさん)の元に身を寄せたのです。
[word_balloon id=”unset” position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” src=”https://www.project-3gokushi.com/wp-content/uploads/2019/05/syokatsuryou_koumei-1.png” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ここまでのまとめ・・・
後漢王朝における宦官VS外戚の争いの末、外戚のトップだった何進が暗殺されて宮廷は大炎上。
怒った何進派の武将たちは宦官を大粛清するという事件に。
が、この混乱に乗じて逃げた新しい皇帝・少帝の身柄を悪名高い「董卓」が確保してしまいます。[/word_balloon]
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