三国志演義のあらすじ:董卓の暴走と反董卓連合
董卓の暴政
まず董卓は、自分が保護した後漢皇帝・少帝を皇帝の座から追いやり、のちに何太后もろとも殺害。
さらに、かつて少帝に次ぐ霊帝の後継者候補にもなった
劉協(のちに献帝と呼ばれる後漢最後の皇帝)
を「お飾りの皇帝」として立てて自分が後見人となります。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ただ、董卓は臆病だった少帝よりも聡明な劉協を見込んだ、という話も正史で残っています。
また、正史では先に述べた宮廷内抗争で宦官にハメられた大臣達の名誉回復なども行っています。
以上のことから、董卓なりに本気で選んで後漢を「改革」しようと思っていたという見方も最近はされています。[/word_balloon]
この皇帝交代には当然多くの漢臣が反対したわけですが、その一人に「丁原(ていげん)」という男がおりました。
その丁原に当時仕えていた人物こそ、「天下無双」の武人として後世有名になる「呂布(りょふ)」でした。
丁原は、呂布の武力を頼みに董卓の行動を妨害しようとしてきます。
丁原自身はともかく(失礼)、最強の武人である呂布がいてはさすがの董卓もなかなか手が出せません。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ちなみに、董卓自身も異民族との戦いに活躍した武将で、腕っぷしにも自信がありました。
ある時董卓は、腕に自信のあった刺客・伍孚(ごふ)に襲われたものの、デブにもかかわらず素早い動きで攻撃をかわし、または、デブだったせいで刺されてもピンピンしており、そのまま逆襲して捕らえてしまったという逸話もあります。
ちなみにこれ、「後漢書」という割と信頼性の高い史料に載っている話です。化け物かこいつは。[/word_balloon]
まともに呂布と戦いたくはない。そこで董卓とその部下・李粛(りしゅく)は一計を案じます。
この李粛は呂布と同郷で、呂布の強欲な性格をよく知っていました。
そこで、董卓の愛馬だった天下一の名馬「赤兎(せきと)」を土産にして、呂布にスカウトをかけます。
そして、呂布は喜んでその勧誘を受け入れ、自ら丁原を始末してその首を董卓に献上します。
鬼に金棒どころのレベルではない董卓、これで彼らに逆らえる者はいなくなったのです。
権力の絶頂を迎えた董卓は、権力と暴力をかさに、後世に伝えられる暴君ぶりを発揮していきます。
演義ではもちろん絵に描いたような暴虐を尽くし、
民を苦しめる董卓ですが、正史の記述も大概のもの。
- 罪のない後漢の大臣達を宴席で虐殺しながら酒を飲んだ
- 多数の民を冤罪にかけ、死罪になった者4桁を超えた
- 悪銭を流通させて都の経済を破綻させた
- 子供から赤ん坊まで、一族に無差別に領土を与えた
などなど、その際の悪行は余程のものだったのでしょう。
とにかく、都で皇帝を操ってやりたい放題の董卓。
しかし、地方の豪族や漢の名家・軍閥はただ黙っていたばかりではありません。
董卓の暴虐に対して立ち上がる者達が現れます。
[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ここまでのまとめ・・・
後漢王朝の混乱に乗じる形で権力を掌握した董卓。
しかし、その治世は「暴虐」と表現されるようなもので、都の治安は荒れに荒れました。[/word_balloon]
反董卓連合軍結成、虎牢関の戦いへ
天下無双の豪傑・呂布を従えて後漢王朝を思うがままに支配する董卓。
そんな中、心ある漢の臣たちはこの状況を非常に憂いていました。
しかし、相手は理屈も道理も通じない、恐怖と暴力で弱者を支配する世紀末のモヒカンのような連中。
諫めようものなら即座に牢獄行きか、無残にぶち殺されて終了。
暗殺しようにも、董卓自身が武勇に長けた男で、ましてあの豪傑・呂布が護衛に付いています。
そんな中、董卓を恐れる後漢の廷臣の様子を見かねたある男が董卓暗殺に名乗りを上げます。
それが、黄巾討伐で功績を挙げた
「曹操(そうそう)」
でした。
ところが、暗殺を決行した曹操はあと一歩のところで失敗してしまいます。
曹操に同情的だった役人のはからいもあり、なんとか故郷へと逃げおおせた曹操は一族や家臣を集めて挙兵の機会を伺うのです。
しかし、身一つで逃亡してきた曹操が集められる兵力はたかが知れています。
このまま、まともに戦っても勝ち目がない。
しかし、知略(悪知恵)に長けた曹操はまたもやとんでもない策を思いつきます。
それは、
「董卓を討てという後漢皇帝(献帝)からの命令(詔勅)を偽造し、それを中原全土の諸侯にばらまく」
というものだったのです。
「逆臣・董卓を討て!」という皇帝直々の命令とあらば、様子見している諸侯も奮い立って動くはず。
曹操の狙いはそれでした。
曹操の狙い通り、董卓を倒す機会を伺っていた諸侯はこのニセ詔勅によって一斉に挙兵します。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]正史でこの詔勅をでっち上げたのは「橋瑁(きょうぼう)」という人物です。[/word_balloon]
集まった面子の一部を紹介しますと、後漢王朝の最高大臣を代々務めた名族で、宦官討伐に活躍、さらにあの曹操の悪友兼旧友でもあった、
「袁紹(えんしょう)」
同じく袁家の御曹司で、従兄弟の袁紹をライバル視している
「袁術(えんじゅつ)」
皇室・劉家に繋がる血筋にして、後漢時代のエリートとして定評もあった
「劉表(りゅうひょう)」
さらには、黄巾の乱後も地方反乱海賊(江賊)と戦っていた
「孫堅(そんけん)」
も南からはるばる参上します。
さらに、北からは騎馬民族戦で活躍した
「公孫瓚(こうそんさん)」
そしてその下に身を寄せていた
「劉備」達も挙兵したのです。
こうして西暦191年、家格と名声のあった「袁紹」を盟主に、
「反董卓連合」
が結成されました。
袁紹を総大将とした反董卓連合軍は一路、董卓軍と連合軍の最前線である要塞
「虎牢関(ころうかん)」
に向けて進軍を開始したのです。
虎牢関の戦いと、連合軍の分裂
連合軍結成の知らせを聞いた董卓は負けるとは思っていないものの、さすがにこの動きは無視できません。
早速自身の切り札である「呂布」を出陣させて連合軍を蹴散らすべきかどうか部下達に問います。
しかし、董卓軍は元々精強な涼州軍閥。
「呂布殿が出るまでもない!」
とばかり董卓軍の先陣を名乗り出たのは
「華雄(かゆう)」という猛将でした。
彼は虎牢関に出陣すると持ち前の武勇で連合軍の武将達をどんどん仕留めていきます。
連合軍は、大軍とはいえ寄せ集めであり、華雄のこの勢いにすっかり怯えてしまいました。
早速の苦戦に連合軍首脳が悩んでいたところ、華雄を仕留めるべく名乗り出た男がいました。
それが、公孫瓚(こうそんさん)の客将として虎牢関の戦いに参戦していた劉備の義弟、
「関羽」でした。
無名の彼を袁紹はじめ連合軍の諸将は疑いますが、関羽は単身で敵陣に乗り込み、華雄を瞬殺。
思わぬ勝利に連合軍は勢いに乗ります。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ついでに、演義において描かれる関羽と曹操の奇妙な腐れ縁もこの時から始まります。
簡単に言えば曹操の片思い一目惚れです(笑)[/word_balloon]
しかし、その知らせを聞いた董卓は、ついに呂布を虎牢関へ出陣させました。
華雄ですら比較にならないほど圧倒的な勢いで連合軍の武将を倒していく呂布。
連合軍は総崩れ寸前にまで陥ります。
しかし、そのピンチに現れたのが、義兄・関羽の活躍を見てウズウズしていたであろう桃園三兄弟の末弟で、武勇なら引けを取らない張飛。
張飛は呂布を相手に一騎打ちを挑み、ほぼ互角の勝負を繰り広げます。
さらに、そこへ義兄の関羽・劉備も参戦し、さすがに三対一では分が悪いと悟った呂布は軍を一度下がらせ、後退し始めました。
これにより勢いづいた連合軍はついに虎牢関を突破、董卓のいる洛陽を目指して進軍を続けます。
・・・が、董卓もさすがにボヤっと討ち取られるのを待っているほど鈍くはありません。
董卓は、なんと後漢の都・洛陽(らくよう)を焼き払って朝廷を住民・町人ごと自分の根拠・涼州に近い土地である「長安(ちょうあん)」に遷都する暴挙に出たのです。
連合軍は、遷都より少し遅れて洛陽に迫るも、既に洛陽は董卓軍によって焼け野原になった後でした。
袁紹はじめ、都・洛陽には思い出もあった者達も多かったでしょうから、董卓の暴挙を聞いて呆然とするしかありません。
さらにタイミングの悪いことに、ここへきて連合軍内部で内ゲバが発生します。
「反董卓」で団結して集まったとはいえ、諸侯それぞれが利害関係を持っているのです。
そして、連合軍の盟主であった袁紹自身も利害があり、またその内部分裂を抑えきれず、連合軍はそのまま解散。
さらに、その後連合軍に参加した諸侯の内部では早速領土争いを始める者も現れてしまいます。
例を挙げると、
董卓との戦いで活躍した孫堅が劉表の罠にはめられ戦死
という事件が起こったり、
袁紹と公孫瓚が北方の覇権をめぐって戦争を始める
など、いよいよ諸侯(軍閥や豪族)間の対立が激化していきます。
[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]反董卓連合軍は優勢に戦いを進めるも、内部分裂で瓦解。
これがきっかけで次第に諸侯内の対立も深まっていきます。[/word_balloon]
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