三国志演義のあらすじ:群雄割拠と曹操の台頭
董卓の死と群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)のはじまり
こうして各軍閥は中国各地で独自の勢力を築くことになり、
後漢王朝のために戦う豪族や勢力はほぼいなくなっていました。
曹操は、有能な名士や武将を片っ端からスカウトしつつ、青州の黄巾賊の残党兵力30万余を吸収して戦力を増強し、河北の袁紹と同盟して中原で勢力を拡大し始めます。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ちなみに、諸葛亮の故郷・徐州(じょしゅう)はこの時代の曹操による大虐殺によって壊滅。
諸葛亮の家族は亡命する羽目になります。
この虐殺は、曹操の父・曹嵩(そうすう)が、徐州を治めていた陶謙(とうけん)の部下に殺害された事が発端。[/word_balloon]
一方、演義の主役である劉備は後漢王室への忠誠のために戦い続けるのですが、戦力が不足している彼の戦いは苦難の連続でした。
時には敵として、味方として、公孫瓚、袁紹、曹操、呂布、袁術などの各勢力の戦いに巻き込まれ、中原の各地を流転することになってしまうのです。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ちなみに、劉備一行は公孫瓚と袁紹の戦いの中、のちに蜀を支える名将・趙雲(ちょううん)と出会っています。
彼が改めて劉備に仕官するのは公孫瓚の滅亡後となります。[/word_balloon]
一方、散々天下を引っ掻き回した「董卓」ですが、彼の悪運もついに尽きる時が来ました。
虎牢関の戦いより明けて192年、漢の忠臣で、曹操の董卓暗殺計画にも加担した「王允(おういん)」は独自に董卓の排除を狙っていました。
彼は策略によって「呂布(りょふ)」を董卓と仲たがいさせ、ついに董卓は暗殺されます。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]この時、王允の養女として董卓と呂布を仲違いさせるスパイ活動を行うのが、三国志演義でも一番の美女と名高い「貂蝉(ちょうせん)」です。
なお、貂蝉のモデルとなったらしい「董卓の侍女」が正史でも触れられています。[/word_balloon]
しかし、王允や呂布もまた暴走した元董卓軍の攻撃を受け、その争いに敗れた王允は死亡。
呂布は都から逃走、再起の機会を伺うのです。
りょ[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]呂布の本格的な活躍はここからです。[/word_balloon]
また華南では無念の死を遂げた孫堅の遺児、
孫策(そんさく)
が、残った一族や仲間達とともに江東の地で旗揚げします。
そしてこの孫策の実弟こそ、のちに孫策から受け継いだ地で三国の一角である「呉」を立ち上げる、
「孫権(そんけん)」です。
こうして、三国志の英雄達がいよいよ本格的にそれぞれの道を歩み始めたのです。
[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ここまでのまとめ・・
政権を握った董卓に対して、各地の諸侯は一致団結して立ち上がります。
しかし、董卓を仕留めるには至らず連合はそのまま空中分解。
董卓の死後は各々が勢力拡大のために戦う群雄割拠の時代になってしまいます。[/word_balloon]
中原の争いを制した曹操と、河北の雄・袁紹
中原における群雄割拠時代。
この戦いを制したのが、袁術や呂布を倒し、中原をほぼ手中に収めた「曹操」
そして、公孫瓚らを倒して河北(黄河以北)を統一した「袁紹」
また、中華南部の「荊州」「江東」ではそれぞれ、
「劉表(りゅうひょう)」
「孫策(そんさく)」
が大きな勢力を築いておりました。
当時もっとも天下に最も近いと言われたのが
「袁紹」
彼の元には豊富な人材と、兵力が揃っていました。
一方、曹操は献帝を手に入れ、人口が豊かな中原を押さえていたものの、呂布らとの相次ぐ死闘によって領内は荒れ果て四方を敵に囲まれている不利な状態。
対して袁紹は、劉表らと連絡を取り、さらに北方の騎馬民族や、黄巾残党の「黒山賊」なども懐柔したことで背後の心配なく南下できる状態でした。
また南からは孫策が曹操の背後を伺う形になり、袁紹にとっては非常に有利な状況でした。
そして西暦200年、天下の形勢は大きく動き始めます。
曹操暗殺計画と劉備の苦難、そして孫策の横死
話は少し遡って・・・
曹操は、197年に後漢最後の皇帝・献帝を董卓残党から「保護」し、自分の監視下に置いていました。
これにより曹操は、「自分の戦いは皇帝の命だ」という「大義名分」を得ることに成功します。
また、呂布に敗れて流浪していた劉備については、
「徐州(じょしゅう)」での戦い以来敵対していたものの、
これを受け入れて共に「呂布」や「袁術」を討っています。
しかし、曹操は後漢皇帝をなかば「利用」していただけ。
しかし曹操が「献帝」を保護している以上、
「後漢王朝を復興して民の平和を取り戻す」
ことが目的の劉備は逆らうことが出来なかったのです。
しかし、次第に野心をむき出しにする曹操は、後漢王朝の心ある者達からも警戒されていました。ほかならぬ「献帝」自身からも。
そしてついに、後漢の臣・董承(とうしょう)らが、献帝と共謀して「曹操暗殺の密勅」を諸侯に対して下そうとします。
董承らはその計画に劉備も誘うのでした。
劉備はもちろんこの計画に賛同して署名します。
が、この暗殺計画はメンバー内部のトラブルにより、呆気なく曹操に漏れてしまうことになります。
密勅を手にした曹操は、その署名の中に劉備も含まれていることを知って激怒しました。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]有能な人材が大好きな曹操は、「劉備は危険だから殺せ!」という参謀たちの忠告を退けてまで劉備らを厚遇していました。
ある意味、宿敵の曹操こそ劉備の一番の恩人かも知れません(笑)[/word_balloon]
即座に軍を起こした曹操は瞬く間に徐州の劉備軍を蹴散らします。
この時の劉備軍の大敗は酷いもので、劉備・関羽・張飛までもが散り散りにはぐれてしまうことになるのです。
そんな中、桃園三兄弟の次兄・関羽は、ただ一人劉備の妻たちを保護して戦いますが、劉備や張飛は行方不明、曹操軍に包囲されてしまいます。
しかし曹操は、関羽を虎牢関の戦で見た時から気に入っており、何としてでも配下に加えたいと考えていました。
一計を案じた曹操は、呂布軍の降将であり、関羽と親しかった武将、張遼(ちょうりょう)を関羽の元に赴かせます。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]彼は後に、「合肥の戦い」など、孫権を悩ませる魏屈指の名将へと成長していきます。
元・呂布軍は伊達じゃなかった。[/word_balloon]
戦だけでなく頭も回る張遼は、討死覚悟で迫ってくる関羽を道理で説得します。
「ここで死ぬのは簡単だが、もし劉備が生きていたらかえって義理を果たさず無駄死にすることになるぞ」
・・・という正論。さすがの関羽も反論できません。
そして、曹操はついに
「劉備の消息が分かったら即座に暇をいただく」
という条件で、関羽を配下に加えることに成功します。
もちろん曹操は、
「劉備の消息が分かったらそのまま去る」
なんてことはされたくありません。
あの手この手で関羽を厚遇し、「劉備の元へ戻る気」をなくさせようとします。
しかし、美女や金銀財宝のような「モノ」ではなく、もっと深い「魂」で劉備と繋がっていた関羽にとって、曹操の過剰なまでの接待は、全く効果がありませんでした。
・・・一方、劉備はちゃんと生きていました。
彼は、曹操に対抗できる勢力を持っていた「袁紹」の元に身を寄せていたのです。
劉備は、袁紹を説得して南下作戦を行わせ、ともに曹操を討とうと考えていました。
袁紹の方も曹操を倒したいと考えていたため、漢王室への忠誠が篤いと評判の「劉備」を利用できるのは、何かと好都合でした。
しかし、曹操のもとに関羽がいることをまだ劉備は知らなかったのです・・・。
そのころ、江東でも大事件が起こっていました。
江東を制圧し、いざ中原進出の機会を伺っていた「孫策」が、刺客に襲われ26歳の若さで亡くなったのです。
[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]孫策はかなり強引な勢力拡大を行っており、大勢の敵を作っていました。
孫策を襲った刺客も、かつて孫策に殺害された人物の食客(しょっかく)でした。[/word_balloon]
孫策は、死ぬ間際に弟の「孫権」を指名。
さらに、自分の相棒であった「周瑜(しゅうゆ)」や、
旗揚げの際スカウトした「張昭(ちょうしょう)」に、
まだ未熟な「孫権」のことを託して亡くなります。
また、荊州の劉表は争いを好まず、袁紹と曹操の間で事態を静観したい欲求が強く、積極的に曹操や袁紹と事を構える気はなかったのです。
こうしてひとまず、天下の覇権は「曹操」と「袁紹」の二人が本格的に争うことになったのです。
[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ここまでのまとめ・・・
中原の「群雄割拠」を制したのは曹操。河北は袁紹の手中に収まり、天下はこの二勢力のいずれかが制すると注目されていました。
一方、江東は孫策が、荊州は劉表、ついでに涼州は馬騰、益州は劉璋・・・というように、各地で勢力がだんだん固まってきていた時代でもあります。
そんな中、曹操の操り人形になっていた後漢王朝による「曹操暗殺計画」が発覚。巻き込まれた劉備軍は散り散りになってしまいます。[/word_balloon]
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