世間では、
「人は第一印象が9割」
・・・などと言われます。
強烈な第一印象の前では、客観的にどんな極悪非道を働き暴れまくっていたとしても、それすら搔き消され、容認されてしまうことすらある。
歴史上、特に後世脚色されまくった人物ほど、そういう例は多くあります。
あの呂布をして「こいつが一番信用できんぞ(ド正論)」と言わしめた劉備様が良い例ですし、
近年の研究でだいぶイメージが変わってきた織田信長公などよりも、よほど外道な行いも多い(恩主・織田信長亡き織田家をその子供達を利用して乗っ取ったり、千利休粛清や豊臣秀次とその妻子に対する徹底的な粛清)にもかかわらず、いまだに「サル」「ひょうきん者」というイメージの強い豊臣秀吉公なども挙げられるでしょうか。
ある意味、そういった「闇を感じさせない魅力」も「英雄」の条件なのかもしれません。
そういう意味で、これから紹介する
孫策(字・伯符)
も、そういった「人の目を眩ませ、外道な行為ですら覆い隠すほどの危険な魅力」を持った男でした。
孫策の生涯と概略
プロフィール
姓名 | 孫策 |
字 | 伯符 |
出身 | 揚州呉郡富春県 |
生没年 | 西暦175年~200年(数え26歳) |
諡号 (呉建国時) |
長沙桓王 ※王止まりの理由は諸説あり |
父 | 孫堅 |
母 | 呉夫人 |
主君 | 袁術→独立 |
正史略歴
父は孫堅。母は呉夫人。
既に黄巾討伐や各地の賊鎮圧で名声があった孫堅の子として、若くして将来を期待されていた。
周瑜とも若いころから親交があり、孫策は屋敷一つをプレゼントされている。
191年、父が劉表との戦いで戦死すると父の実質的な主君だった袁術に身を寄せる。
そこで彼の配下として雌伏の時を過ごすが、一方で張紘などの名士とも親交を結んで着々と独立の機会をうかがっていた。
袁術に利用され、時には利用しながら徐々に力を蓄え、父の旧臣達の支えもあって江東へ進出。
その後も様々な人材を集めつつ袁術軍内でも影響力を高め、最終的に袁術からも完全に独立。
破竹の勢いで江東を制覇しつつも各地から多くの人材を集め、孫呉の人材的・軍事的な基盤を築いた。
のちに袁術が皇帝を称すると絶縁状を叩きつけ、曹操に接近するがのちに敵対。
この頃から父の仇である荊州の劉表や黄祖とも本格的に抗争を開始し、さらに徐州や中原にも進出を企てる。
一方、孫策は急激な勢力拡大の中で地元の名士や太守を相次いで追放・殺害しており、多くの恨みを買っていた。
しかし、恐れ知らずな孫策は自分に向けられた恨みに無警戒であり、一人で外出していた際にかつて自分が殺害した許貢の残党に襲われる。
単身刺客を撃退した孫策だが既に重傷を負っており、孫権らに後を託して死去。26歳の若さだった。
敵からは恨みを買っていたが父の旧臣である程普・黄蓋・韓当は常に孫策に従い、張昭・張紘・周瑜など多くの名士が彼に惚れこんでその配下に入り、勢力拡大の過程では周泰・蒋欽・呂蒙・董襲・淩操など多くの在野の猛者が彼に従った。
孫策の求心力により集まった人材は、のちに孫呉を長く支える名臣として開花することになる。
『三国志演義』の孫策
三国志演義では正史通りの活躍に加え、
- 敵将を脇に抱えたまま暴れ回り、帰還した頃にその敵将は窒息死
- 大喝しただけでビビッて落馬死した敵将もいる
- 仙人・于吉の呪いで死ぬ(于吉は正史注にも仙人として登場しており、演義オリジナルの人物ではないことに注意)
・・・というように、正史よりさらにバイオレンスな描写が追加されている。
一方、太史慈とのエピソードなどはほぼ史実通りだがより派手に脚色され「友情」っぽさが増しており、「二喬」との結婚も略奪婚ではなく姉妹・義兄弟揃っての両想いだったということになっている。
ついでに二喬に憧れていた曹操に嫉妬されるというこれまた主人公っぽい展開つき。
良くも悪くも孫呉の人物の中ではかなり目立っている人物である。
孫策と他の人物との関係
周瑜
言わずと知れた断金コンビ。
かなり若いころから親交を結んでおり、周瑜に屋敷をプレゼントされたり、その勧めで引っ越ししたりと仲良し。
一時袁術の配下に居たこともあったが一貫して孫策を支援しており、最終的には彼の配下として活躍。
孫策の死に際には間に合わず、葬儀にのみ参加することになったがその死後はしっかりその遺志を継いで弟である孫権を支え、やがて天下に名を轟かせることになる・・・
張昭・張紘
徐州の名士。
「二張」・・・と呼ばれるのは演義の話だが、
正史でも「片方が従軍すればもう片方は留守を任される」というほど信頼され、並び立つ存在だったことは確かなようだ。
両名とも若い頃より高い評価を得ていた名士だったが、なぜか揃いも揃ってすごい頑固者であり、孫策以外のスカウトは誰も受けなかった。
そんなガチエリートの二人なのに、なぜかどこの馬の骨とも分からない若造の孫策のスカウトだけはすんなり受けたのは三国志の七不思議に数えられてもよいくらい謎。
張昭に至っては、陶謙に恨まれ投獄されているほど頑固に仕官を拒否していたのに・・・汗
両名とも孫策に欠けていた政治・外交面・人脈面を支え、特に中央にも顔が広い名士であることは何かと役に立った。
特に孫策が信頼したのは張昭であり、内政を一任して自分はひたすら最前線で戦争していた。
さらに西暦200年、孫策は臨終の際も張昭を直々に呼ぶと弟の孫権を託し、孫権にも「内政のことは張昭に相談せよ」と命じ、また張昭に「もし仲謀(孫権の字)が仕事に当る能力がないようならば、あなた自身が政権を執ってほしい」と劉備みたいなことを言うほど信頼していた。
張昭も張紘も同じく孫権に重用されるが、張紘の方は212年に病死。
張昭はその後長く孫権の御意見番、もとい「口うるさい頑固爺」として、仲良く喧嘩したり、屋敷に火をかけられたり、時に泣いて抱き合ったりしながらも呉を支えることになる。
孫権
弟。呉の建国者にもかかわらず父兄より目立ってないが、孫家の血は健在。
「兵を率いて天下を争う才は俺の方が上だが、人材を使いこなし、国を守る能力はお前の方が上だ」と孫策は評したが、大人しい文科系というわけでは全くない。
ぶっちゃけ、酒が入ると父や兄以上の狂犬っぷりを発揮する困ったちゃん。
孫策の死後、19歳の孫権は激しく動揺して屋敷に引きこもったというので兄をそれなりに慕っていた・・・かも知れない。でも暗殺を指示した説もある。
孫策が26歳の若さで死んだ挙句、難題山積みの国の後始末を19歳で押し付けられた、ある意味苦労人。
孫堅
父。孫堅が黄巾や各地の賊と戦っていたため、孫策とは離れ離れで暮らしていた。
(早くから父に従軍していたイメージが強いけれど、これは史実の孫賁あたりの役割がミックスされたとも)
のち、劉表との戦いで戦死。これにより劉表や黄祖と孫一族の因縁が始まる・・・
袁術
名門袁一族の出で、孫策の父・孫堅などを利用して勢力を拡大していた。孫策は父が死ぬと袁術を頼り、その配下として徐々に武功を上げていく。
袁術のほうは孫策を割と気に入っており「孫策のような息子がいれば」と称賛したという。
しかし、そのくせ恩賞はケチるなどしたことから孫策は袁術を見限ってしまい、独立を許す羽目になった。
曹操
直接ぶつかってはいないが、仮想敵。
曹操は「親の七光り」的な評価をして強がりつつも、後年段々勢力を拡大していった孫策のことはそれなりに警戒していたようだ。
郭嘉
郭嘉は孫策について「彼が殺したのはいずれも当世の傑物で彼らのために死力を尽くす人間は多数いる。そんな奴らの恨みを買いまくってるのに孫策本人は無防備だし、いくら兵を揃えていようと実質あいつ一人で外を徘徊してるようなもん。刺客にでも襲われたらすぐ死ぬでしょうね」とえらく具体的な予言を残している。
そして、完全にその通りになった。
・・・貴様、何をした?
何をやったと聞いているのだッ!郭嘉!!
劉表・黄祖
父の仇として大いに因縁あり。
孫策が江東に勢力を伸ばすと、隣接する荊州にいるこの二人も当然孫策と敵対することになった。
特に江夏を守っていた黄祖は立地上も江夏から荊州への玄関口であり、しかも父孫堅に直接手を下した「怨敵」とされることも手伝い、孫策版・「どつくリスト(千堂武士風に)」筆頭候補だった。
黄祖が差し向けた属将は孫策によってことごとく瞬殺され、黄祖は仕方なく専守防衛に切り替えてなんとか孫策死去まで耐えきった。
陸康
周瑜のはからいで孫策が引っ越してくるまで、廬江の太守だった人物。
若くキャリアもない孫策を侮っため孫策から恨まれてしまい、袁術の命令で攻めてきた孫策に居城を包囲される。
2年にわたってよく耐えたものの敗走。
陸康自身は1か月後に病に倒れて死去してしまう。
その後は悲惨で、陸一族は多くが離散し、半数近くが野垂れ死んでしまったという。
陸康自身は決して無能ではなく、よく任地を治めていたが・・・恨まれた相手が悪かった。
なお、陸績・陸遜は彼の一族であったが事前に故郷に帰されて難を逃れており、孫策死後は恨みを水に流して孫権に仕えることになる。
厳虎・厳輿
呉郡に勢力を張っていた豪族兄弟。山越族の長であったという説も。厳虎は「ホワイトタイガー厳白虎」の名でも知られる。牙一族ではない。
弟・厳輿は武勇に優れていたが、孫策との和平交渉に赴いた際に孫策に煽られたので煽り返したところ、いきなり戟を投げつけられ即死。
兄の厳虎も頼りにしていた弟が呆気なく討たれたことで動揺し、ほどなく敗走した。
厳虎のその後の消息は分かっていない。
劉繇
漢王朝の親戚筋で、若い頃から気骨ある人物として知られる。
孫策の噛ませ犬的なポジションになってしまっているものの、当時の評価は高く、兄の劉岱とともに「名臣の器」と評された人物。
が、相手が悪すぎた。
劉繇は揚州刺史として、その座を狙う袁術とその配下に居た孫策を敵とする羽目になったことで任地を叩き出され、同郷の太史慈にも裏切られるという、あんまりな仕打ちを受ける。
その後も失地奪還に向けて精力的な活動を続けるも、無念にも志半ばで病死。
しかしその遺族は(同じく孫策に追い出された王朗のはからいもあって)孫策に厚遇され、特に長子である劉基は優秀かつ人柄も良かったので孫権から信頼された。
王朗
会稽太守。
嵐のごとく江東に攻めてきた袁術派の孫策に対し、厳虎などと組んで頑強に抵抗したものの、降伏することになった。
孫策の器量に感じ入るところがあったのか、一方的な被害者なのに降伏が遅れたことを謝罪したり、のちに「劉繇の遺族を厚遇すべき」アドバイスしたりもしているなど、謎に好意的だった。(のちに劉繇の子・劉基は呉で活躍)
なお、王朗自身はのちに中央に招かれ、魏に仕えてからはどんどん才能を発揮。
演義では諸葛亮にレスバで敗北して憤死させられる噛ませ犬であるが、史実では人望厚く賢明な人物で、曹丕・曹叡から厚遇されて平穏に一生を終えている。
中国では古いドラマ『三国志演義』の憤死シーンがMAD素材にされている。
許貢
呉郡太守。
孫策を「項羽に似ている危険人物だからさっさと中央に召還して鎖を繋いでおけ」的な上表をしようとしたため孫策にバレて引き出される。
そこで許貢はバレてるのにしらばっくれたため、孫策は怒って配下に彼を絞殺させてしまう。
・・・というヘタレな最期ではあったがそこそこ人望はあったようで、彼の残党が孫策を襲撃して致命傷を負わせることに成功した。
陳登
あまり目立たないが、孫策、そして孫家の北上を阻み続けた人物。
曹操に協力して呂布を陥れるなどの活躍が有名だが、一方で北上してきた孫策軍を撃退する等、武将としても優れていた。
またかなりの野心家で、独立勢力として江南平定を企むなど一筋縄ではいかない人物だったようである。
刺身が「死ぬほど」好きなことで有名。
于吉
孫策を呪い殺したという伝説もある仙人。
演義オリジナルの人物ではなく、『三国志』呉書「孫策伝」注の『江表伝』『志林』『捜神記』に記述があるため、全くの架空の人物ではない。
いずれもやや信憑性が薄く、『捜神記』に至ってはほぼオカルトマニア向けの胡散臭い本だが・・・。
『捜神記』によると、「仙人なら雨を降らせてみろよ」と孫策に煽られ、本当に雨を降らせたら逆ギレしてしまった孫策に殺された。
「聖人なら雨を降らせてみろよ」と煽られて逆に降らせられなかった劉虞も公孫瓚に殺されたが、この振りはどっちに転んでも殺されることが分かる。
その後、傷を療養している孫策の枕元に現れるなど粘着スパム行為を敢行し、見事孫策を憤死させたという。
全然さわやかじゃない、孫策の血塗られたウォーボーイ伝説
よほど詳しい方ならともかく、無双シリーズやその他創作から入った三国志ファンの方々で、孫策に「悪い」イメージを持っている方は果たしてどれぐらいいるでしょうか。
孫策といえば・・・たとえば、
- 「若くして江東を制圧した英雄」
- 「若くして父を失い苦難の連続」
- 「周瑜との熱い友情(断金の交わり)」
- 「プライベートは快活でハンサムな若武者」
- 「有名な美人姉妹を周瑜と一緒に娶る(演義だとついでに曹操発狂)」
- 「26歳と、若くして非業の死を遂げた儚い一生」
・・・などなど、その生涯は主人公属性に満ち溢れております。
同じく演義でイケメン属性(孫策は正史でも美男子と明言されている)持ちの周瑜との友情はアッチの属性の方にも非常に受けが良い。しかるべき場所で探すとそういう作品がゴロゴロ出てくるくらい。特に無双系。
一般には恐らく・・・というかほぼ間違いなく、呉を建国した弟・孫権よりも人気があるという有様。
そんな孫策の主人公属性は疑いようもなく、人気が出るのもむべなるかな、といったところなのですが。
・・・その一方、孫策の生涯を振り返ると非常にバイオレンスでえげつない一面も垣間見えます。
(もっともこれは孫家全般に言えることですが・・・)
孫策の物騒な流血伝説
- 交渉の場で敵将を脅した挙句、いきなり刃物を投げつけ殺害
- 江東にいた敵対名士・太守の多くを追放・殺害する
- 親父の仇を戦でボコったついでに曹操にも喧嘩を売る
- 史実で大将自ら一騎打ちに及んだ数少ない実例の一人
- 張昭・張紘などの名士に内政を任せ、自分はひたすら戦争
- 私怨があった太守を攻め滅ぼし、一族野垂れ死にへ追い込む
- ↑の最期を遂げた太守の一族が呉の名将・陸遜である
- あの危険人物・袁術をして「息子にしたい」と言わしめる
- 人望のあった仙人に理不尽な難題を押し付けた挙句、難題をクリアされたことに逆ギレして殺害
- 10万人生き埋め、秦の宮殿焼き討ちなどのバイオレンスな伝説を残す項羽に似ていると言われる
- ↑の上表をした人物を詰めたらしらばっくれたため、キレてその場で絞殺
- 郭嘉をして「あいつ恨み買いまくってるのにノーガードだから絶対長くない」と言わしめる
- 最期は予言どおり、自分が殺した人物の残党により命を落とすという因果応報
- 孫権による呉建国後、父・孫堅には帝号が贈られたが、孫策だけは地元名士の地雷を踏む恐れがあったのか帝号を見送られる※諸説有
と、このような感じで・・・孫策に関する史実や伝承の記述を集めるだけでも「戦」「殺」「死」というような倫理的にマズいワードの羅列になってしまう。
わずか26年という一生で、ここまで好き放題暴れた男は乱世という時代を考えても(それこそ彼以上に暴れたのは項羽くらい)なかなかいないのではないのでしょうか・・・
このとおり、史実の孫策(演義も割と)というのは、血の気が多いことで有名だった父・孫堅にも負けず劣らずの爆走人生を送っておりました。
主人公属性・若く爽やかなイメージがある孫策ですが、その一方で後漢王朝においても名声があった人物を多数ぶっ殺したり追い出したりして、強引に勢力を拡大してきた一面もあるのです。
ぶっちゃけて申せば、孫策という人物はその被害者からすれば災害というほかないです。
たとえば先ほど関連人物(というか被害者一覧)で挙げた劉繇や王朗、または陸康にしても、孫策さえ来なければそれぞれ立派な太守・州牧として業績を残せたであろう人物でした。
が、そのほとんどが「孫策に敵対したせいで人生をぶち壊されてしまった」としか言いようのない結末を迎えております。
「一将功なりて万骨枯る」と言われますが、英雄・孫策の華やかな快進撃の裏には必要以上に無数の屍が積み上げられているのです。
そして孫策の問題は、まさに郭嘉が指摘した通り、その無数の屍と共に積み上げられた恨み・憎悪に対して全く無警戒だったこと。
それが、最終的には彼自身の命取りとなったのでした・・・
あの袁術の手先として暴れ放題
孫堅、そして孫策のヒャッハーロードを振り返っていくのに、一人、どうしても避けて通れない人物がおります。
それが、孫家の事実上の主君であった袁術です。
ある意味、孫親子の経歴が真っ赤な血で染め上げられた元凶がこの人物と言ってもよいでしょう。
なにせ孫堅、そして独立前の孫策の軍事行動は、ほとんどが袁術のバックアップによって支えられたものだからです。
曹操に敗れて南陽からお引越しする前の袁術は荊州の劉表などと激しく勢力争いをしており、孫策の父・孫堅もその配下として劉表と戦い、命を落としました。
そして淮南方面に引っ越しした後の袁術は、今度は揚州・江東の支配へと戦略を切り替えることになりますが、その先鋒として揚州各地の太守・豪族を攻めまくっていたのが孫策。
孫家の軍事行動は、主君である袁術の戦略と連動していたわけです。
あまりそういうイメージはないかも知れませんが、当時の袁術は袁紹と覇を競い合うほど強大な勢力を誇っていました。
孫堅も孫策も、そのバックボーンと兵力があってこそ、あそこまでやりたい放題暴れられたというわけです。
袁術はそんな孫策を「息子にしたい」と言って賞賛する一方、約束した太守の座を反故にするなど姑息な言動で孫策を引き留めるなど、骨の髄まで利用し尽くすつもりだったのでしょう。
・・・が、孫策がそんなタマであるはずもない。
気が付けば孫策は次第に、衰退した袁術では制御することが不可能なレベルまで成長したのでした。
そして孫策は、袁術が皇帝を僭称したのをきっかけに絶縁状を叩きつけて完全に独立。
一方、孫策は袁術と断交したわけではなく、むしろ孫策は最後まで袁術の忠実な手先であったという面白い考察もあるので是非ご一読されたし。
・・・いずれにせよ、袁術という「宿主」が自滅したことで完全に自由となった孫策は、宿主を食い破って自由になった怪物のようにさらなる勢力拡大を目指した・・・はずでした。
孫策が唯一最後まで勝てなかった男・陳登
ものすごい勢いで江東(揚州一帯)を征服していった孫策。
しまいには旧主の袁術や、父の仇である劉表&黄祖とも開戦。
一時同盟を結んでいた曹操とも敵対して許都を狙う(これは異説あり)など、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで暴れ回っていました。
が、そんな彼も無敵ではありません。
江東から淮南・徐州へ北上するにあたり、大きな障害となったのが、江東から徐州へ進出する際の壁となる長江・淮水流域の要所・広陵郡を治めていた陳登でした。
曹操と呂布の戦いでは曹操に協力し、呂布を陥れた策士でしたが、独自に勢力を拡大せんと目論む野心家でもあります。
彼が目を向けたのは、孫策が勢力を拡大しつつあった江南であり、孫策もまた江南に領土を広げていたので、狙いが被ってしまった状況です。
ちなみに孫策とは呂布が暴れていた頃からの因縁があり、当然ながら両軍は対立。
江東から西進して江南地域を狙った孫策の背後で、陳登が孫策に敗れた厳虎の残党による反乱を扇動して掻き乱すなど、緊張が高まっていました。
そしてその報復として、孫策は弟の孫権に兵を預け、この生意気な広陵太守・陳登を攻めさせます。
しかし、陳登の巧みな籠城戦の前に攻めあぐね、結局北上は果たせませんでした。
なお、孫策がしばしば「曹操と献帝のいる許を狙った」と言われますが、実は孫策の第一目標はたびたび孫策の邪魔をしていたこの陳登だったとも言われています。
孫策の統治
孫策の内政手腕は・・・
孫策は侵略者・征服者としては確かに素晴らしい才能がありました。
しかし、内政や外交の能力に関してはどう高く見積もっても「並以下」の能力しかないと考えざるを得ません。
孫策が内政でこんな政策を取った、などの記録がほとんど残っていないのもそうですが。
孫策のキャリアは朱儁の佐軍など、完全な武官職ばかりで文官職を経験した記述が全くといってよいほどありません。
当時、呂布などがそうだったのですが、のちに猛将・名将として名を上げる人物でも意外とどこかで文官職を経験している・・・というケースが大半です。
「本当に戦争経験純度100%」みたいな人物はむしろ稀で、それこそ賊上がりの荒くれであったり、王平や麹義のように異民族の戦場で育ったごくごく一部の人間が該当するくらいでしょう。
孫策は、その数少ない例の一人と言えます。
張昭・張紘、あるいは周瑜のような名士がいなければ、おそらく孫策も相当内政に困っていたでしょう。
実際、孫策本人は亡くなるまでほとんど戦争ばかりしていて、内政手腕のようなものは正直欠片も感じられません(笑)
しかし、孫策は「人材収集」においては天才的で、自分に欠けている要素を補う人材を、的確かつピンポイントで集めることができました。
なぜか孫策の下へ集まる人材
そんな「血塗られた、ザ・ウォーボーイ」ともいえる孫策。
その暴力性と実害の大きさは、ある意味かの呂布をも超えています。
・・・しかし、そんな孫策の周辺には何故か天下有数の人材がくっ付いては離れませんでした。
二張、周瑜など、天下有数の名士たちが続々集まる
その代表格が張昭、張紘といった名士であり、後漢王朝においても結構な名門の出であった周瑜などもその代表だったのです。
凄まじい勢いで当時名声のあった太守・名士が孫策に追い出されたり殺されたりしているにも関わらず、孫策は嫌われるどころか、張昭や張紘のような「他の誰にも靡かなかったような」頑固者達からすら、異様に好かれてしまう才能がありました。
張昭に至っては、当時徐州刺史であった陶謙の仕官を頑なに拒否した挙句、怒った陶謙に投獄されても頑として首を縦に振らなかったほどです。
孫策は「おしゃれや談笑を好み、快活な性格」と伝わっており、また美丈夫であったとも伝わります。
まさに、今でいう、体育会系の爽やかなイケメンです。
また孫策は、張昭や張紘に対してはまるでその子供のように、恭しい態度で接していました。
たとえば張昭。
孫策は中原の戦乱を避けて江南まで移住していた張昭の存在を知ると大喜びで参謀として招き、「師友」として敬います。
さらにはわざわざ張昭宅に赴いて張昭の母親に挨拶しに行って家族同然に接するなど、当時としては最大限ともいえる敬意と友情を示していました。
呂蒙を認めた魯粛が、呂蒙の母に挨拶しに行ったのと同様です。
さらに、名士ゆえ中原で暮らす知人が多かったことで、「彼らと頻繁に文通することで、曹操ら北方の群雄との内通を疑われるのではないか?」と不安に思っていた。
しかし、それを知った孫策はそのことを一切気にせず、どんな噂も讒言も爽やかな笑顔で一蹴し、張昭に文武の一切を委ねて見せます。
挙句、重傷を負った孫策は死期が近付くと、孫権とともに枕元に彼を枕元に呼んで「弟を頼んだぜ・・・」と直々に後を託します。
なお、演義では一緒に呼ばれた周瑜が軍事を、張昭が内政を任された・・・となっていますが、史実ではこの時周瑜は巴丘に駐屯しており、呼ばれていませんでした。
つまり、今わの際の孫策の遺言を、後継者である孫権と同じ席で(盟友・周瑜を差し置いて)ほぼ独占していたのが張昭であり、この異常なまでの信頼の強さは感動と同時に一種の気持ち悪さすら覚えます。
「二張」の片割れである張紘もまた、中央のスカウトには一切応じなかったのに孫策のスカウトはなぜかあっさり承諾。
さらにあの怖ーい呂布からのしつこいヘッドハンティングを受ける張紘を見かねた孫策は、わざわざ自分で「張紘さんは俺の大事な先生だ。手を出すんじゃねぇよ(意訳)」と手紙を書いて送ったほど、張紘を尊重していました。
この二人は、片方が孫策に従軍する際は必ずもう片方が留守を任され、演義で「二張」と並び称されたのも頷けるほど特に重用されていたのです。
父を失いながらも大望を抱いて努力し、ただ純粋に自分達を尊敬してくれる爽やかな佇まいの若者。
20歳以上年下の青年・孫策のそんなひたむきな姿に、三国一の頑固親父であった張昭ですら・・・
否。
むしろ頑固親父気質であったからこそ、
見目も言動も爽やかで、ひたすらに自分達を尊敬してくれる、まさにおっさん好みの若者に惚れこんでしまったのかも知れない・・・。
周瑜との友情は、最早言うまでもないでしょう。
同い年であり、孫策同様凛々しい若者。
また、周家は先祖が三公を輩出したほどの名門です。
孫策の父・孫堅が反董卓連合に参加した折、寿春で孫策と対面した周瑜は運命のごとく固い友情で結ばれます。
周瑜もまた孫策のために大きな屋敷をプレゼントし、家族のように接したほどの惚れこみっぷり。
やがて、袁術時代の共闘を経てこの二人はますます名声を高めていき、孫策が事実上独立勢力となると、色々な意味で傑物であった魯粛をもオマケに連れて孫策に帰順。
さらには美女と名高かった喬公の娘姉妹を娶って本物の義兄弟となるのでした。
イケメンの相棒兼義兄弟、姉妹のヒロイン。
なんでしょうかね。
この字面だけで光が溢れるような主人公属性は。
野心家・太史慈も戦いを経て仲間に
もう一人、孫策に魅了されてしまった男として忘れられないのが太史慈です。
彼は若い頃より武勇に優れた人物として著名で、かの孔融の危機を救うなどして名声を得ていました。
しかし、彼はただの義侠心溢れる武辺者というだけではなく、その遺言が示すように「将来は天子になってやるぜ」という夢を抱いていたバリバリの野心家でもありました。
それゆえ相観の大家である許劭からは「コイツは信用できない」と逆お墨付きを喰らい、その言葉を聞いた劉繇からも疎まれる羽目になります。
その太史慈が一騎で偵察に出ていたところ、なんと敵大将である孫策に遭遇。
そのままなんと、中華史上でもほとんど例のない「大将同士の一騎討ち」に及びます。
この時は決着こそつきませんでしたが、結局劉繇が敗れた後に自身も抵抗の末捕縛され、孫策の前に引き出されます。
しかし、なんと孫策は「おめぇ・・・強かったぜ」と、爽やかな笑顔で太史慈を解放。
そのまま折衝中郎将に任命したうえに、兵すら預けます。
太史慈「おい、俺はお前の敵だった男だぜ?信用していいのか?」
孫策「ああ」
太史慈「こいつ・・・なんて甘ちゃんなんだ・・・だが・・・嫌いじゃねぇ・・・」
さらに、太史慈が「孫策のために敗残兵を回収したい」と言い出して離れて行った際、孫策の周囲が「逃げる口実だ!」と疑う中、孫策は太史慈を信じて待ち続けました。
孫策「アイツは・・・必ず帰ってくるさ」
部下「し・・・しかし!」
孫策「男の約束、疑うんじゃねえよ」
・・・果たして太史慈が約束通り敗残兵を集めて孫策のもとへ戻ると、孫策は快く彼を建昌都尉に任命したのでした。
太史慈「・・・お前、俺が逃げるとは考えなかったのか?」
孫策「全然。俺はアンタを信じているからな」
太史慈「チッ・・・どこまでも甘ちゃんだぜこのガキは・・・だが、悪くねぇ・・・///」
まさに、かつてライバルだった男が、人を真っすぐに信じる心を持つ主人公に感化され、仲間に加わるかのような「王道展開」。
孫策という男には、今に通じる「主人公属性のような何か」が備わっていたのかも知れません。
孫策の死とその影響
そんな孫策でしたが、その最期もまた悲劇的かつ主人公属性溢れるものです。
彼は一人で狩りに出ていた際、かつて自身が殺害した太守である許貢の残党により襲われ、重傷を負います。
その後も容体は改善することなく、死期の迫る孫策。
死に際の彼は弟の孫権を呼び、
「兵を率いて戦場に駆け、天下の争いに与するような事においてはお前は俺には及ばないが、才能ある者を用い、江東を保っていく事については、お前の方が上だ」
と、第二部主人公に託す言葉として100点満点なセリフを発します。
そして、メロメロに信頼していた頑固親父の張昭に対しては、
「もし弟の仲謀(孫権)がダメなら、あんた自身が政権を執るんだぜ」
と、劉備そっくりな遺言を残しました。
孫策に全幅の信頼を置かれていた頑固親父の張昭は、このどこまでも素直で爽やかな若者の、あまりにも美しすぎる最期にどう反応したかは残念ながら記されていません。
物語第二部で新主人公の師匠ポジになるおっさんよろしく、その場では気丈に振舞いながら、どこかの崖か何かの上で、人知れず天に向かって吠えながら号泣したのではないでしょうか。
張昭「孫策・・・!うおおおおお孫策・・・!無茶しやがって!」
「畜生!!お前の弟は、絶対俺が守るからな・・・!」
※この辺のセリフは全て、暇孔明の心の中の夢女子が垂れ流した妄想です
死に際まで「主人公属性」に満ち溢れた孫策の一生はここで終わります。
享年、数えでわずか26歳でした。
死後、孫権らに丸投げされた問題
しかし。
味方の前では「主人公属性溢れる勇者様」であった孫策は、敵にしてみれば悪夢そのもの。
いきなり攻めてきては片っ端から善良な太守をぶっ潰し、嵐のように江東・江南を暴れ回る拳王軍のような存在。
そんな彼が好き放題に戦ばっかりしていた自由人生のツケは、決して軽くはありませんでした。
そのツケは死に逃げした孫策ではなく、残された弟・孫権らが背負わされる羽目になったから、さあ大変。
なんせ、孫策が死んだのが26歳だったのですが、弟の孫権はわずか19歳という若さで、孫策が乱暴かつ雑に広げた領土をまとめる羽目になります。
しかもただ雑に領土を広げただけでなく、漢王朝から正式に任命されていた太守まで片っ端から孫策が殲滅してしまったものだから、特に現地の名士からは大いに恨みを買っていました。
特に、のちに呉の重臣となる陸遜・陸績の一族が孫策のおかげで危うく壊滅しかけたことは恐らく陸遜にとっても、孫権にとっても「モヤモヤした」何かとして残ったとしても不思議ではありません。
それが二宮の変の悲劇に繋がって・・・というのは流石に言いすぎでしょうか。
即位当初の孫権が見舞われた災難に話を戻します。
彼が孫策の後を継いだ当初、なんと領土としていた江東六郡のうちの五郡(廬江・会稽・廬陵・丹陽・豫章)が反乱を起こすという、もはや江東・江南全体が世紀末のような事態に見舞われます。
さらに従兄からは複数裏切られるわ、弟や信頼していた古参が内ゲバで殺されるわ、裏切った廬江太守から逃亡民の返還を断られるわ・・・
当時の孫権はそんな事件が多発し、混乱した国内を治めるのにてんやわんやであったことは間違いないでしょう。
どこかの博打ヤクザが言うように、天下を狙う余裕など全くなかったでしょう。
また、異民族・山越も孫呉にとっては脅威でした。
その鎮圧が孫呉の恒例行事&新人研修として行われるなど、しばしば孫呉の領土拡大の足を引っ張ることになりました。
孫策が一息つく前に死去したこと、また後を継いだ年若い孫権自身が侮られていたであろうという要素もあるにせよ、孫策がろくに内政や外交を行っていなかったことは明白ではないでしょうか・・・。
異民族は仕方ないにせよ。
死に際の綺麗なムードを返せ!
というか、撤回じゃ!このバカ兄貴!!!
どないしてくれんねん!!
・・・と、孫権たちが叫んだかどうかは、我々の与り知るところではありません。
とまあ、そんな兄貴ではありましたが、晩年に皇太子である孫和にわざわざその廟を参籠させたり、墓の整備を行ったりと、孫権自身はこのウォーボーイながら爽やかな兄のことを憎からず思っていたようです。
・・・ただ、「武烈帝」の号が贈られた父・孫堅とは違って孫策が「長沙桓王」と、「王」止まりであったことは、孫策・孫権兄弟の関係性に対して様々な憶測を呼んでいます。
ぶっちゃけ、陸家はじめ江東の名士に多大な被害をもたらした孫策を過度に尊重することは、心象的に色々まずかっただけの話のような気もしますが・・・
間違いなく「孫呉の礎」は築いた?
内政はマトモにしなかった孫策ですが、張昭&張紘、さらに周瑜をはじめ、孫策が遺した人材は紛れもなく本物ばかりでした。
このおっさん二人は孫権の代には立派な「爺」に進化します。
特に張昭はやたら長生きし、同じくおっさんになった孫権の腹心として長く活躍する傍ら、「口うるさい爺と悪ガキ」のような微笑ましい関係性を築いていくことになるのですが、それはまた後年のお話。
周瑜は、荊州攻略の準備をしていた際に孫策が亡くなったためその死には立ち会えなかったものの、孫策から託された孫権には積極的に臣下の礼を取り、若き彼を支えつつ、後に三国の形勢に大きな役割を果たす人物へと成長します。
孫策が遺した人材は、確かに孫呉の「基礎」となったのです。
良くも悪くも、生涯をマッハ50で駆け抜けた風雲児・孫策は爽やかな風のように去っていきました。
・・・その風の正体は爽やかな風どころか、色々な意味で天下に大きな爪痕を残した大暴風雨だったわけですが。
江東に割拠した孫策もまた、三国志の基礎を作った男の一人として、今後も変わらずその名が語り継がれていくことでしょう・・・。
そんなわけで、孫策の紹介は以上になります。
ここまでお読みいただきありがとうございました( ーー) _旦~~
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