暇孔明です。
さてさて、本日はこの御方を紹介しましょう。
孫権軍の二代目大都督にして、曹操を破った周瑜、関羽や劉備に一泡吹かせた呂蒙・陸遜に比べてイマイチインパクトが弱いことに定評のある
魯粛(字・子敬)殿です!
いやいや、怒らないで聞いてくだされ。
本当に、魯粛殿は長ーい間不遇な扱いを受けていたのですから。
というか、今でも三国志にあまり詳しくない方には、
「お人好しで優柔不断、天才軍師・諸葛亮と周瑜に振り回される、人畜無害だけが取り柄の文官」
的なイメージで見られてしまいがちなのではないでしょうか?
魯粛のそんなイメージは、長い間他の三国志系創作にも影響し、孫呉ではかなり重要な人物であるにもかかわらず、
たとえば周瑜~陸遜までのいわゆる「四大都督」の中で、
唯一、無双プレイアブル化をハブられてきた
というところが彼の不遇さを物語っています。
(文官・軍師はゲームに落とし込むのが難しいのもありますが、だからと言って劉禅様の方が先にプレイアブルキャラになるなど誰が予想したであろうか)
・・・しかしながら。
「正史」の研究が進んできたことで、魯粛の人物像は次第に見直されつつあります。
また、鳴り物入りで「無双7」より登場した魯粛のキャラクター造形は、暇孔明的にはかなり満足ですw
無双の魯粛は、まさにこれから紹介していくような
豪快な男。
おそらく、横山三国志のような「情けないポッチャリでお人好しなおじさん」像に慣れた方々にとっては、割と衝撃的だったのではないでしょうか?
この記事でも、そんな魯粛の「豪快さ」を是非知って欲しいと思って書いてみた・・・のですが。魯粛について調べているうちに、だんだん自分の中の魯粛像が狂ってきてしまいまして。
最終的に私が辿り着いたのは、
「こいつ相当やべぇな」
という感想でした(笑)
史書を読んでいて思うのが、
魯粛はあの時代でもブッチギリの危険思想の持ち主
だったのではなかろうか。
具体的に彼の武勇伝(?)を挙げますと、
- 裕福な家庭出身なのに、変な連中とつるみながら豪快に散財。「狂児」と評されていた問題児
- 「後漢復興とか無理じゃけん、江東に割拠して帝王目指そうや」と直球すぎる暴言。爆弾提案をされた孫権は慌ててフォロー
- 「三国一の頑固ジジイ」こと張昭からも名指しでディスられる
- 若い主君・孫権を半ば脅迫に近い形で説得し、赤壁開戦を決意させる
- 赤壁勝利後、孫権の精一杯のもてなしに対して「まだ足りん。あんたが帝王になってこそ初めて俺の功績に報いたことになる」などとプレッシャーをかける
- 諸葛亮の天下三分に先駆け、「天下二分の計」ともいえる戦略構想を披露。実際に孫呉はその戦略を基に割拠することになる
- その諸葛亮の「天下三分の計」も、事実上魯粛なくしては成立しえなかった
- 荊州問題についての会談で、曹操も恐れる天下の豪傑・関羽をボロクソに論破。関羽は何も言い返せず
とまあ、史書の記述を並べただけでも魯粛という男本来の「スゴ味」が何となく伝わってくるはず・・・(笑)
ハッキリ言って、巷で「不良軍師」「ヤクザ軍師」などと呼ばれる郭嘉や法正など、危険度合いで言えば魯粛の足元にも及ばない。
成り行きとはいえ董卓死後の後漢に残された最後の希望を完全に叩き潰したことで裴松之にキレられた当代随一の策士・賈詡ですら、魯粛のスケールの前では霞むかも知れない。
野心を秘め、主君の戦略をもコントロールし、大陸の情勢すら左右するような戦略構想をぶち上げ、しかもそれを実行させたという点で、当時魯粛に比肩しうる人物は大陸広しといえどもそう多くはないでしょう。
諸葛亮ですら、魯粛の天下二分の計の「パクり」もとい「もともと天下二分だったところに劉備とかいう今にも死にそうだった雑魚をムリヤリねじ込んだ蛇足三分の計」みたいな構想を作ったにすぎません。自虐
こういうと大げさかも知れませんが、『三国志』の伝には、魯粛についてこう書かれています。
「周瑜亡き後、呉を代表する人物だった」
無駄に血の気が多くて問題児揃いの良くも悪くも個性的な人物の多い孫呉で「代表」と呼ばれるからには、魯粛が色んな意味で凡庸ならざる人物であったことはまず間違いないのです。
ではでは、そんな「演義」と「正史」で人物像が違いすぎる男・魯粛の生涯と魅力をご紹介していきましょう。
魯粛の生涯と概略
プロフィール
姓名 | 魯粛 |
字 | 子敬 |
出身 | 徐州下邳国東城県(現:安徽省定遠県南東部) |
生没年 | 西暦172~217年 |
主君 | 袁術→孫策(諸説あり)→孫権 |
正史略歴
資産家の家に生まれる。若い頃は家業をそっちのけで武芸や兵法の修練に勤しみ、密かに同志を集めるなど「狂児」と地元の人々から呼ばれていた。
その後、袁術によって故郷・東城県の長に任じられるが間もなく一族郎党と同志を連れて出奔、友人である周瑜の誘いで孫策に引見する。
しかし、魯粛の祖母の死により、葬儀のため故郷に戻っていたところで孫策が死去。
その後友人の劉曄の誘いで鄭宝のもとへ赴こうとするが、周瑜の強い誘いで孫策の弟・孫権に仕えることになる。
孫権の諮問を受けた魯粛は「漢室の再興は不可能であり、江東、荊州を足掛かりとして天下を伺うべし」という大胆な提案を行う。
208年、曹操が南征を開始すると孫権に願い出て荊州へ赴いて敗走中の劉備軍を抱き込み、独断で孫劉同盟の交渉を進める。
孫呉では曹操への降伏論が多数を占める中、周瑜らと共に一貫して抗戦を主張。
劉備軍の軍師・諸葛亮の弁舌も借りた彼らの工作により孫権もついに対曹開戦を決断。無事孫権は赤壁の戦いで勝利し、曹操の大陸統一の野望を挫く。
周瑜が210年に死去した後は周瑜本人からその後継者として指名され、大都督となる。
魯粛は曹操に対抗するには孫劉同盟の維持が必須だと主張し、実際に曹操も両者の連合を脅威とみなしていた。
だが、結果的に孫劉同盟は孫権にとっては劇薬のようなものであり、利用するはずの劉備軍が赤壁後に予想以上の速度で勢力を拡大してしまうという副作用も生んだ。
挙句孫権軍は劉備軍を利用するどころか、逆に利用されて孫権軍が取るはずだった荊州・益州を劉備軍に先んじて取られる結果に。
劉備軍が益州を取ると孫権と劉備の関係は一触即発となり、軍事衝突に発展することもあったが魯粛は孫劉同盟を維持しつつ、劉備軍の関羽に対して一歩も退かず交渉。
215年、劉備軍が占拠していた荊南のうち東半分の長沙、桂陽を返還させることでひとまず衝突を避けることに成功する。
217年、魯粛は46歳で死去。
彼の死後、実際に呉帝となった孫権は「魯粛の言った通りとなったのか」としみじみと語ったという。
魯粛と他の人物との関係
孫権
魯粛の主君。
のっけから魯粛に「後漢に見切りをつけて天下目指せ」と煽られ、赤壁前夜は「降伏したらあんたの命の保証はない」と脅され、赤壁後も「あなたが天下取らなきゃ俺は満足しないよ」とプレッシャーをかけられ続ける。
実は、孫権にとって魯粛という男は、張昭あたりよりもよっぽど頭の上がらない人物だったかも知れない。少なくとも家に火なんてかけたら逆に殺られそう
しかし魯粛の死に際しては哭泣し、彼の死後12年あまりで皇帝に即位した際は「魯粛はこうなることを予見していたのか」としみじみと語ったことから少なからず畏敬の念はあったようだ。
後に孫権は陸遜とともに亡き周瑜・魯粛・呂蒙の三名について語った際、「劉備に荊州を守らせたのだけは失敗だったがそれを補って余りある人物だ」と評す。何気に軍事面を評価しているのが面白い。
孫策
正直、孫策と魯粛の接触がどの程度だったかは微妙。ちょっと話した程度かも知れないし、チラ見した程度であったかも。
しかし、親友が主君と仰ぐ孫策には、魯粛も大いに期待感はあったはず。自身が考えている新たな帝王候補として。
孫策もまた色んな意味で魯粛に通じ合うものを感じたのか、「魯粛のことを大いに気に入って尊重した」という。
戦はバカ強い孫策と相棒・周瑜、そしてぶっ飛んだ戦略構想を持つ魯粛。この三人が組んで暴れるところを見てみたかった気もするが、運命のいたずらか。
魯粛が祖母の死で故郷に帰っているタイミングで、孫策は刺客に負わされた傷がもとで死去。
最強若手トリオの地獄絵図共演はついに果たされることはなかった。
周瑜
初代大都督にして赤壁の英雄。魯粛から倉を丸ごと提供されたことがきっかけで友情を結ぶ。
孫策急死後、故郷に戻っていた魯粛を熱烈にスカウトし、孫権のもとへ招く。
赤壁では魯粛と共に主戦派として孫権を説得し、(戦いの経過については諸説あるものの)曹操を退ける大活躍を見せる。
その後は荊州攻略に奔走するも、曹操軍の守将・曹仁や劉備の暗躍の前に苦戦。
戦傷が悪化し、無念のうちに死去してしまった。
魯粛とは晩年対立していたという説もあるが、周瑜は死に際に魯粛を後任として指名した。
呂蒙
三大目大都督。「呉下の阿蒙に非ず」の故事で知られる。
魯粛は呂蒙を脳筋武勇一辺倒の人物と軽んじていたが、呂蒙は猛勉強でその知略を開花させ、魯粛に逆に策を授けるほどに成長する。
感心した魯粛は先述の「呉下の阿蒙に非ず」と感嘆し、呂蒙もまた「士、別れて三日、刮目して相見よ」という名言を生み出す。
その後、魯粛はわざわざ呂蒙の母に会いに行くという「当時で最大限の敬意」を見せ、深い友情を結んだと言われる。
張昭
孫権のとって頭の上がらない・・・というより悪ガキの孫と爺さんのような微笑ましい関係。
「魯粛は傲慢で、年若く物事に精通しておらず、任用するのは早い」と孫権の前で名指しで批判。赤壁でも降伏論者として魯粛らと対立。
以上のように、魯粛との関係はあまりよろしくなかった模様。
諸葛瑾
みんな大好きロバ兄上。
孫権が魯粛と同時期に招いた人物として名が見られることから一応同期と言える存在・・・なのだが交友の程は不明。
魯粛は諸葛亮に対して「私は諸葛瑾殿の友人です」と挨拶したが、この「自己申告」以外に魯粛と諸葛瑾の交友を示すような記述はない。
ぶっちゃけ魯粛が適当に言った交渉の方便だった可能性もある。
諸葛亮
ある意味魯粛の真のライバル。
孫劉同盟の際、魯粛は「あなたの兄・諸葛瑾の友人です」と名乗って彼と交友を結んだ。
魯粛の斡旋で孫権のもとへ赴き、孫権を説得して開戦を決意させるきっかけを作る。
その後、孫権(とその裏にいる周瑜・魯粛ら)を逆に利用する形で主君・劉備に荊州・益州を取らせるが、同時に孫劉同盟決裂の危機を招く。
魯粛が死去するとその死を悼んだという。
劉曄
魯粛の友人。
鄭宝なる人物が1万の兵を率いると、共に身を寄せようと魯粛を誘うが、なんやかんやあって魯粛から逆に「鄭宝には気を付けろ」と注意されたので鄭宝を斬って軍勢を掌握。
その後は袁術から独立した劉勲に身を寄せたりするが、最終的に曹操に仕えてその能力を存分に発揮。曹叡の代まで魏の臣として重きをなす。
袁術
魯粛の最初の主君(?)。
屍生人のごとき生命力で、敗れて領地を奪われてもまた大勢力を築き、主に曹操などをウザがらせた。
早くから後漢王朝に見切りをつけ、シンプルに自ら皇帝を名乗ればいいと思って本当に実行するが、当然のごとく諸侯の総スカンを食らって自滅。
魯粛からは早々に離反されていたが、根っこの部分では「後漢オワコン、新たな帝王が立つべし」という思想の持ち主という点で似た者同士だったのは皮肉。
出会いが違えば案外良い楽しい主従になれたかもしれない。
『三国志演義』の魯粛
正史のような豪胆さは見る影もなく、諸葛亮と周瑜の対立の間で伝書鳩のようにこき扱われる。
関羽との「単刀赴会」でも、堂々と交渉するどころかはぐらかされ、最終的に関羽を狙う呂蒙に対する弾除けのような散々な扱い。
演義をベースにした作品では基本的にお人好しに描かれる・・・が、中華ドラマの「ThreeKingdoms」では一味違う。
従来のイメージ同様に温和で振り回されやすい面は残しつつ、史実リスペクトを思わせる芯の強い面が強調されている。
作中では劉備、諸葛亮、関羽に対しても史実同様強硬に交渉。
さらには戦略的な意見が違った周瑜との対立も辞さず、ひそかに後継者である呂蒙に荊州奪還の遺志を託すなどの姿も見られる。
魯粛ファンにはたまらない一作である。
独断と偏見で語る魯粛の人物像
では、ここから私の勝手な魯粛評を書き綴っていきたいと思います。
昔はハト派の文官というイメージが強かった魯粛ですが、彼の人物像は今まさに見直される途上にあります。
人の数だけ様々な魯粛像がある中での「私評」ということで、気軽に読んでもらえればと思います。
先に申しますが、ぶっちゃけ独断と偏見です。
苦手な方は回れ右。
秋風五丈原での蜀軍のように整然と撤退してください。
若い頃から「狂児」と呼ばれた御曹司は文武両道の偉丈夫
若い頃の魯粛は、はっきり言えば「不良」そのものと言って差し支えないでしょう。
幼い頃に父を亡くした魯粛ですが、祖母に引き取られ、そこそこ裕福な暮らしをしていました。ちなみに母親も存命なのですが、なぜ敢えて祖母だったのかは不明です。
魯粛の容姿は『呉書』によると「風貌魁偉」だったとされ、学問だけでなく剣術、弓馬の術も学んでいました。
横光魯粛のようにポッチャリナヨナヨしているどころか、マッチョのいかつい男だったわけです。
さらに「若くして志を持ち、しばしば人が思いつかないようなことを目論んでいた」と言われています。
この頃から既に「片鱗」は見せていたのでしょう。(何の)
若い頃の魯粛は、本業そっちのけで怪しいゴロツキ連中と親交を結んだり(ついでに周瑜等見込んだ人物のために派手に散財しながら)、自身も武芸を磨き、私兵を集めては戦の訓練をしてみたりとやりたい放題だったと言います。
育ての親である祖母や母は、そんな魯粛に対してどういうリアクションをしていたのかは分かりませんが、苦労はお察しします。
むろん、これは魯粛にしてみれば一連の行動はあくまで「乱世が近いことを見越したうえでの準備」だったのでしょうが、周囲の大人がそれを理解してくれるとは限らぬ。
「あんな狂児が跡を継ぐようでは、魯家もいよいよ終わりだ」
などと郷里の人々からも陰口を叩かれる始末でした。
まるで「某尾張のうつけ」殿のような前半生です。
少なくとも、品行方正なおぼっちゃんではなかったことは間違いありません。
ただ、一方で魯粛の振る舞いは「呉書」によると
「方正謹厳」
つまり、真面目で慎み深かったと言われ、またその日常は「質素で流行りものを好まず」・・・と伝わっています。
魯粛は知力・体力・財力があるだけでなく、必要とあらば自分を律し、質素で慎み深く振る舞うだけの自制心・精神力も備えていたインテリヤンキーだったといえます。
魯粛、弁舌と肉体言語が両方そなわり最強に見える。
若い頃の魯粛が「見てくれ」だけの人物ではなかったことを証明する逸話が『呉書』に載っています。
袁術を見限った魯粛は、一族郎党と取り巻き連中から成る老若男女三百余人を連れて江東への移住を試みるわけですが、この時ちょっとしたトラブルに見舞われます。
魯粛が故郷を離れようとしていることが知られていたのか、「州から派遣された追手」に引き止められそうになったのです。
しかもその追手は「騎馬」であり、どう考えても「平和的なお見送り」などではありません。
下手人は明記されていないものの、魯粛を逃がしたくない袁術あたりの差し金でしょう。
が、その程度でビビる魯粛ではありません。
魯粛は、
「お前達も良い大人だから、天下の情勢は分かっているはずだ。」
「お前達が私を捕えても賞されることもないし、逆に逃がしたとて罰されることもあるまい。」
「つまり、お前達が私を引き止めても、お前達には何の得もないのだぞ」
と、(恐らく先の長くない袁術への皮肉を交えつつも)理路整然と言い放ちます。
要するに、袁術も長くはない。
そんな奴の命令で自分を引き留めたところで一体何になるのか?
お前達もさっさと身の振り方を考えた方がよいぞ・・・
魯粛は彼らをそう諭したのです。
・・・と、ここまでならよくいる「知恵者」という感じでしょうが、彼は違いました。
ついでに、魯粛はこのとき追手の前で、
盾を地面に立てかけ、それに何本も矢を射てことごとくブチ抜いて見せる
という呂布や張飛がやりそうな肉体言語で威嚇。日頃の鍛錬が単なる金持ちの道楽ではないことを見せつけます。
追手たちは先の指摘に図星なところもあったのか、ガチったら逆に殺られそうと思ったのかしぶしぶ引き返しました。
魯粛の文武両道ぶりが伝わるエピソードです。
・・・色々な意味で。
魯粛と周瑜の友情
魯粛の人生に深く関わってくるのが、生涯(?)の盟友ともいうべき周瑜です。
この周瑜も実は後漢王朝では結構な名門の出で、しかも美男子。
まさに若手のホープのような存在でした。
当初、袁術の使い捨てとして目を付けられスカウトから逃げる形で居巣県の長として赴任してきた周瑜は、元々魯粛の評判を聞いていたのか。自ら魯粛のもとへ挨拶へ赴き、同時に物資援助を求めます。
初対面の相手に無心って・・・
すると魯粛は、家に二つあった大きな倉の片方を、食料ともども周瑜に丸ごと与えてしまうという気前の良すぎる行動を見せつけます。
だからお前ら初対面やぞ!
「こいつ噂以上にやべぇなw」
と色んな意味で思ったであろう周瑜は、魯粛と友情を結ぶに至ったのでした。
その友情は「子産・季札(ともに春秋時代の名政治家)の如し」と史書は伝えています。
その後、むしろ周瑜のほうが魯粛の才能にゾッコンという感じであり、何かと周瑜は魯粛を気にかけていました。
たとえば・・・
故郷から逃れてきた魯粛を孫策に引き合わせ、孫策が死んだあとは孫権にも「彼を他国へ行かせてはならない」と凄まじい熱量で推挙。
さらに先手を打って、江東に残っていた魯粛の母の身柄を確保してから説得に向かうという徹底ぶりです。
それって、要するに人じ(ry
そして赤壁の戦いの折は魯粛と共に主戦派筆頭として活動。
降伏派だった張昭らからは名指しでディスられています。
この一点のみを考えても、魯粛は従来のイメージのような「ハト派」とは思えません。
しかし、周瑜はこのとき他国へ使者として赴いていたため下手をすれば劉琮のように重臣に押し切られ、強引に降伏を決断させられていた可能性も高いです。
魯粛はところどころ反則技を用いながらも逆に孫権を開戦へ導き、戻った周瑜も「勝てる」と主張。その言葉通り、周瑜(または孫・劉備連合軍)は伝説的な「赤壁の戦い」で曹操を破り、江東制圧を断念させています。
その後、周瑜と魯粛は主に劉備に対する戦略で意見を違えることもあったようですが、周瑜はその間際に「自分の後任には魯粛を」とわざわざ指名したほど信頼していました。
魯粛が袁術を見限った真意とは
私が個人的に興味深いと思うのが、かつて魯粛が見限った袁術との関係です。
袁術は、一度は魯粛を彼の故郷である東城の県長に任じることに成功しますが、魯粛は袁術の「支離滅裂」な行動を見て、早々に離れてしまうわけなのですが。
・・・その後、袁術は皇帝僭称や悪政により孤立。
そして相次ぐ敗戦ののち袁紹を頼ろうと北へ逃走しますが、その途上で発病し憤死してしまいます。
・・・と、いうところまでは詳しい方なら当たり前のようにご存知かと思います。
ただ、ここで一つ注意しておきたいことがあります。
それは、魯粛が「袁術の失敗」を見て何を思ったのかということです。
・・・たぶん当時の普通の良識ある人間なら、袁術の失敗を見てこう思うのではないでしょうか。
「袁術は、不忠にも都の献帝陛下を差し置いて帝位への野心を持つからああいう末路を辿った」
そしてそれを見限った魯粛について、
「袁術を見限った魯粛は賢明だ。それに後漢に対する忠誠心もあり、逆賊に与しなかったのだ」
・・・と。
・・・しかし、
「漢はもう終わりで新たな王朝が立つべし」
=漢を見限っているという点においては、
実は魯粛も袁術と「同意見」だったのです。
冒頭を思い出してほしいのですが、
この後、魯粛は孫権に対して
「漢はもう終わりだよ、あんたが帝王になればええんやで」
とド直球に勧めるのです。
つまり、袁術から離れた魯粛が考えていたのは、
「漢を支える名族である袁術ですら皇帝を名乗るようでは、漢も本格的に終わりだ」
「漢に代わる王朝が立つべきタイミングはもう来ているな」
「でも袁術、テメーはその器じゃないからダメだ」
・・・とあくまでこういうということであって、
「恐れ多くも、都におられる帝を差し置いて皇帝を名乗る不忠者の袁術では、天下を安んじることはできない!私は真の英雄にお仕えして(ry」
などと、どこぞの聖人君子キャラのような崇高な志をもって袁術から離れたわけではないということです。
当時の人々も、まさか帝位を名乗った袁術から離れた男が、袁術と根っこの思想では共通していて、後に新たな皇帝を生み出そうとしていたなどとは夢にも思わなかったでしょう。
魯粛のもう一人の友人・劉曄との逸話
魯粛には、周瑜以外にもう一人の友人がいました。
それは、のちに曹魏に仕えて数々の献策を行った劉曄です。
この劉曄という人物、「演義」では「霹靂車」を発案した「ザ・理系」のイメージが強い人物ですが、正史では魯粛同様なかなか「やべぇ」人物です。
具体的にどんな男だったかと申しますと、
母の遺言でマークしていた父の悪臣を、兄が止めるのも聞かず単身で斬殺。
しかもこの時の劉曄、13歳。
つまり、幼くして親孝行でしかも頭も回るし肝が据わっている・・・ということでちょっとした有名人でした。
余談ですがこの劉曄、劉備様よりもよほど確かな漢室の血筋です。
とまあそういう感じで・・・二人が出会った経緯は不明ながら、劉曄と魯粛がいろんな意味で馬が合う友人だったことは想像に難くありません。
そんな彼と魯粛のエピソードで印象的なのは、孫策が死んだあたりの頃。
劉曄は、祖母の葬儀を故郷で終えた友人・魯粛に対してある誘いをかけたのです。
それは、当時1万人の兵を集めて割拠していた鄭宝という人物のもとに二人で馳せ参じ、一旗揚げないかというものでした。
なお、鄭宝絡みの劉曄と魯粛の行動は、魏書と呉書で内容が食い違っています。なので当記事では両方を補完する形にしました。
この時魯粛は、一度は劉曄の誘いに乗って鄭宝のもとへ行こうとしたと言われます。
・・・が、そこに周瑜が現れて「魯粛、今の孫家にはお前のような男が必要だ!」と熱烈なスカウトをかけ、最終的に魯粛も折れて孫権に仕えることを決めたのでした。
しかし魯粛は、せっかく誘いをかけてくれた友人・劉曄を無下にしたわけではなく、あるアドバイスを手紙に書いて送ります。
以下、魏書劉曄伝から。
魯粛:
「劉曄よ、この前君が言ってた鄭宝って奴だけど、あいつ信用できんよ。」
「奴は単に君を利用するつもりだろうから、気をつけてね~」(※意訳です)
友のありがたいアドバイスを読んだのは、13歳で人を斬った男・劉曄。
賢明な彼は「なるほど、せやな」と考え直し、鄭宝を酒宴に招くふりをして自ら斬殺。
その軍勢1万余をそっくりそのまま奪ってしまったのでした(笑)
やっぱり友人が友人だけに、劉曄も色んな意味でタダ者ではなかった。
・・・その後色々あった末曹操に仕えることになった劉曄は、魏の臣として明帝・曹叡の代まで活躍することになります。
うん、この男にしてこの友あり。
心温まる友情物語ですね。
間違いない。
・・・まあ、後漢末って割とこの手の話はよく聞きますので(笑)
孫権に皇帝即位を勧めたのは、どの程度の「危険思想」だったのか?
さて、魯粛の大きな見せ場の一つが、孫権に「天下二分」ともいえる戦略を披露し、さらには皇帝即位まで勧めてしまうあの場面なのですが、まずはサラッとその際の会話をおさらいしておきます。
魯粛を招いた孫権は、二人で飲んでいるときに今後の戦略を問います。
「今は漢室もすっかり衰えて、どこもかしこも戦乱だ。」
「私は父や兄の志を受け継ぎ、斉の桓公や晋の文公のように漢室を盛り立てて天下の兵乱を収めたいと思っているんだ。」
「魯粛殿はわざわざ私のもとに来てくれたわけだが、あなたはどのように私を助けてくれるのでしょうか」
若くして一国の君主を押し付けられたとなった青年の、どこか焦りを感じるような問いです。
ちなみに孫権が引用した「斉の桓公」「晋の文公」とは、それぞれはるか昔の春秋時代、「覇者」として名を轟かせた英君です。
孫権が語ったのは「自ら帝位について天下を我が物にする」ということではなく、「天子の代理人として天下の兵乱を終わらせたい」という、当時の価値観としては非常にまっとうな志でした。
・・・が、魯粛はここで、
その孫権のピュアな言葉を真正面から否定します。
魯粛:「漢の再興?そら無理ですよw」
孫権:「えっ」
魯粛:
「前漢の高祖・劉邦様も、最初は楚の義帝を盛り立てようとしましたね」
「けど結局、項羽が義帝を殺して水の泡になったじゃないですか」
「今の時代で言えば、ちょうど曹操が項羽と同じ立場になっています」
「しかも曹操はすぐには倒せるような男ではなく、漢はもう先が知れてます」
「孫権さんが斉の桓公や晋の文公に倣おうとしても、それは無理ですよぉ」
とまあ、
まさかの漢室再興全否定。
だったわけです。
孫権「ガーン!え・・・?じゃあ私はこれからどうすれば」
魯粛「そりゃあもちろん。あなたはこの江東に割拠しながら、好機を伺うのです。」
「桓公や文公ではなく、あなたはむしろ前漢の高祖・劉邦に倣って天下を目指すのが一番ですよ。」
孫権 ( ゚д゚)
ちょっと何言ってるのか分かんない。
孫権は凍り付いたに違いありません。
いや、それは確かに・・・
たぶん当時の心ある人なら内心思ってはいたかも知れない。
「もう漢は、滅びゆく運命に差し掛かっている」と。
なお、漢が「一度滅んで劉秀が復活させた」という実績から、当時の人々には「漢は滅びぬ!何度でも蘇るさ!(ム●カ並感)」と考えていた士人も少なからずいた可能性もあります。
・・・とはいえ、ですよ。
それをここまでどストレートに言ってのけ、
おまけに自分で帝王を目指せなんて言ってくる奴は、
当時天下を見渡してもこの魯粛ぐらいのものでしょう(笑)
孫権のリアクションもまた笑えます。
「い、いやぁ~そんなこと・・・私はこの地で全力を尽くし、漢の朝廷をお支えしたいと願うばかりですよ!」
「あなたが今おっしゃったことなんて、私ごときには思いもよりませんよ!あはは・・・」
・・・と、爆弾発言をかます男を前に、慌ててフォローしている図にしか見えませんでした。
孫権に皇帝即位を勧めたことはどれだけ「狂っている」ことなのか?
私は当記事を執筆するにあたって、
「魯粛が後漢王朝も滅んでいない状況下でわざわざ孫権に皇帝即位をそそのかしたのは、どの程度危ないことだったのか?」
「それとも、言うほど危険思想でもなかったのか?」
ということを色々な方のご意見も参考にしながら考えてみたわけですが。
結論から申しますれば、
「やはり当時の状況を考えても結構な危険思想だった」
と結論付けざるを得ません。
確かに当時後漢は衰えていましたし、さらに中国には古来より「易姓革命」という、王朝交代を正当化する思想が存在します。
ですがこの易姓革命はあくまで
「時の皇帝が暴虐で悪政を行ってどうしようもない場合は、徳のあるものがこれを滅ぼしてよい」
というものであって、
「単に国が衰えたから、俺の方が有能で力があるから皇帝になる」などという山のボス猿的理論で誰でも皇帝になっていいという思想ではないのです。
実際、それをやろうとした袁術はあっという間に諸侯を敵に回して滅んでいるわけで。
さらに、都の献帝自身、たびたび自分の最大の庇護者である曹操を暗殺しようと企てたりするところはありますが、愚かではなくむしろ「聡明」と評されていました。
むろん、彼が主導して暴虐を働いたというようなこともありません。廃位して王朝を交代させられる条件・・・というにはどうにも不十分なのです。
そもそも、孫権の皇帝即位の正当性については、袁術とどっこいどっこいか、あるいはそれよりも欠けていると言わざるを得ません。
曹丕は曲がりなりにも「後漢最後の皇帝・劉協(献帝)からの禅譲」という形を取り、
劉備は怪しいながらも「漢の血を引く自分が、滅ぼされた後漢王朝の復興を果たす」という大義を掲げていました。
袁術も、こじつけとはいえ「預言書」の存在や、当時袁紹と並んで最大勢力を誇る後漢の名門であるというブランドがありました。
それに比べて孫権は、かの天才兵法家・孫武の子孫らしい(陳寿による投げやりな記述)という程度の、まさに後年魯粛が指摘した通り「素性が怪しい人物」でしかなかったのです。
孫権が皇帝を名乗ったのは、
- 後漢が完全に滅亡を迎えて9年
- 既に曹丕と劉備の二人が皇帝を名乗って久しく
- さらに魏や蜀漢に対してしばしば戦勝を収め、両国に対抗しうる実績を備えてから
というように、かなり条件を整えてからなのが分かります。
それを考えれば、魯粛がそれよりはるか昔、後漢もまだ滅んでいない時期から皇帝即位を見据えていたというのは驚くべきことなのです。凄いというよりは狂っていると言った方が良いですが
また、当の孫権は孫策が死んだ西暦200年時点ではまだ数えで19歳の青年であり実績も自信もあるはずもなく、孫策死後の混乱により国もガタガタでとても天下を狙うどころではなかったはずです。
兄の孫策は一般に「呉の礎を築いた」と言われますが、実態は
「親父の旧臣や、自分に味方する名士を集めて、自分はひたすら戦争しまくっていた」
と言っても良いほどにかなり強引な勢力拡大を行っています。
そしてその過程で自身に敵対する多くの名士・太守を殺害、または追い出して敵を大量生産しているのです。
ちなみに、あの陸遜を輩出する陸家ですら、元は孫策の被害者だったりします。
そして孫策本人はというと、血塗られたウォーボーイとしての人生を満喫した後、よりにもよって自分がかつて殺した人物の元食客によって致命傷を負い、
足元もガタガタなまま、後始末を孫権や張昭らに丸投げしてポックリとあの世へ旅立ってしまったのですからさあ大変。
それはやけ酒の一つも飲みたくなります。
- 26歳で死んだ男が創業し、19歳の弟が跡を継いだ勢力という傍から見ても痛々しい
設定状況 - 孫策死後、江東の住民がどんどん流出
- 江東南部は異民族・山越が暴れ回っている危険地帯
- 西には父・孫堅の仇敵である劉表軍の将・黄祖が駐留している
- 孫策が地元名士と対立しまくったため、いつ刺されてもおかしくない
などなど、当時の孫呉は目も当てられないほど問題が山積している状況だったのです。
事実、孫策が死んだ直後の孫権はというと、
ただオロオロと涙に暮れ、張昭がそんな孫権を叱咤激励して自室から閲兵式に引っ張り出した
・・・なんて逸話も残っています。
確かに「狡猾な孫権は、兄思いな姿勢をアピールしたのだ」という見方もできるでしょうし、先ほどの孫権の「フォロー」にしても、
「もう既に孫権にもその気はあったけど、建前上漢への忠誠心を語って見せた」
という見方もできなくはありません。
ですがそもそも、これまで語った当時の孫権の立場からして「新たな帝王として天下統一」などという誇大妄想に浸っている余裕など全くなかったと考える方が現実的だと私は思うのです。
やはり当時の孫権は本人の言葉通り「この江東の地を治める」というのが精一杯だったはずですし、それは嘘偽りない本音であったでしょう。
英雄は、元から英雄の志と素質を持っていたのか。
それとも、様々な死線を乗り越えて英雄に成長するものなのか。
後世の人間にそれを知ることはできませんが、
少なくとも孫権は「後者」のタイプであると私は考えております。
さらに、当時の孫権から見てつい最近「袁術という、悪しき前例」があったということも考えねばなりません。
というか、そもそも孫権の兄・孫策自身が、皇帝を称した袁術をつい数年前に弾劾し、関係を断ったばかりなのです。
そんな中で「うん、帝王になる!」などと孫権が魯粛の誘いに乗って変な野心を見せてしまったら、
兄貴が袁術に投げた特大ブーメランがたちまち戻ってきて、孫権自身にぶっ刺さるわけです。
それなのに魯粛は、かつて兄が否定した袁術と同じ道を進めと言い放ったわけで。
これがいかに危険なことなのか、私が孫権の立場なら「やべえ奴と関わってしまった」と泣きたくなりますね。
しかしだいぶ未来のことにはなりますが、結果的に孫権は魯粛の言ったとおりに呉帝に即位します。
これは偶然なのか。魯粛の驚異的な先見性の賜物なのか・・・判断に悩むところですね(笑)
孫権は、当初魯粛を持て余していた?
張昭に名指しでディスられる魯粛
そのクレイジーな新参・魯粛を名指しで非難した男がおりました。
それが、孫呉最強のご意見番にして「三国一の頑固親父」こと張昭です。
「魯粛は傲慢な若造で、物事に精通もしていない」
「そんな奴を任用するのは危険ですぞ!」
と、かなり直球で魯粛をディスっています。
・・・後世、若手の魯粛や周瑜、さらに諸葛亮に突っかかる
「保守派の老害ジジイ」
のような扱いを一部でされたりもする張昭ですが・・・
当時の主君・孫権の不安定な立場を考えれば、魯粛という危険思想の持ち主を配下に加えようとする孫権に物申すのは、むしろ当然ではないかと思うのです。
張昭にしてみれば魯粛という男は、
自分がせっかく必死に支え、後見人として育ててきた青年を怪しい儲け話に誘う詐欺師の類
にしか見えなかったことでしょう。
そして、張昭の諫言はある意味功を奏したのかも知れません。
一応孫権は、
「張昭の言葉を気にせず魯粛を厚遇し」
「魯粛が実家で生活していた当時と変わらない生活ができるほどの手当てを与えた」
とされていますが・・・
ここからしばらく、魯粛は本当に優遇されていたのか疑問に思うほど
事績がなーんにもない空白期間を過ごします。
むろん張昭らに遠慮していたというのもあったことでしょう。
また周瑜も後漢では名の通った名家の出身で、いきなり魯粛の構想に賛成したかは分かりません。
周瑜も史書の言動を見るに、
「後漢の復興を諦めていた派」
ではあったようですが、だからと言っていきなり袁術のように皇帝になるプランをぶち上げるほど無謀ではありません。
まして、中原に名士の知り合いが多くいて、人望もあった張昭ならなおさら魯粛に賛成できたものではないでしょう。(張昭の出身は諸葛亮や魯粛と同じ徐州です)
というか正直なところ、孫権もかなり魯粛を持て余していたのではないでしょうか?
あるいは、魯粛もさすがに
「素質はあるが、今の孫権様にはまだ天下に打って出るだけの力はない。ならば、しばらく私も高見の見物と行こうか」
と、作戦を切り替えたという可能性もあるでしょう。
何はともあれ、次に彼が本格的に活動するのは、
有名な赤壁の戦い前夜でした。
孫劉同盟の結成は、魯粛の危険な独断行動
運命の西暦208年。天下は大きく動きます。
袁一族を滅ぼし、ほぼ河北制圧を終えた曹操がついに南進に動き始めたのです。
しかも、曹操がちょうど南進へ軍を発した直後、「荊州の狸爺」こと劉表が病死。
河北と中原を制圧した曹操軍を前に、跡を継いだ息子・劉琮では対抗しきれないことは明らかでした。
そして最凶の軍師・魯粛の本領はここから発揮されていきます。
魯粛、荊州へ「偵察」に向かうが・・・
劉表死す。
そのことは、江東に勢力を構える孫権もすぐさま知ることになります。
そこで魯粛は、亡き劉表への弔問という誰が考えても社交辞令と分かる口実で荊州へ赴かせてほしいと提案。
その本音はもちろん、風雲急を告げる荊州の偵察です。
「劉表亡き後の荊州の状況を偵察してくるから、息子や客将の劉備共が団結するようならば我々もこれと組み、ともに曹操軍に対抗する」
「もしこの期に及んで荊州が内紛を起こしていたりして利用価値がなければ、我らが荊州を攻め落として天下への足掛かりとすべし」
・・・と魯粛は孫権に進言し、許可を得て荊州へ出発します。
しかし、曹操もやはり一筋縄ではいかない男。
魯粛の誤算は、劉表の子である劉琮が呆気なく降伏し、曹操がさほど苦労をせず旧劉表軍の領土と軍を手に入れてしまったことでしょう。
建安13年(208年)年の曹操の動きを見ますと、
- 7月:曹操、大軍を率い劉表征討に出発
- 8月:劉表が病死
- 9月:劉表の子の劉琮を降す
・・・というように、劉表がちょうど死去するという幸運もあったとはいえ、曹操は侵攻を開始してからわずか2か月余で荊州を制圧してしまったのです。
荊州を利用して曹操に対抗する・・・という魯粛の目論見は、曹操の予想外の速さによって砕かれた・・・かに見えました。
そういえば、ここで何気に超重要人物の名をスルーしていました。
それは、「劉表のもとで居候」という形で身を寄せていた劉備です。
劉備は、劉表の命で対曹操軍の最前線となる新野に駐留していました。
「演義」では劉表と劉備の関係は
良好だったように描かれますが、
史実の劉表は劉備を警戒していた模様。
ちなみに、魯粛も荊州行きを志願する際
「劉表は劉備を疑って使いこなせなかった」
と指摘しています。
荊州侵攻が本格的に始まる前は、夏侯惇や于禁の軍を撃破するなど「なかなかやる」ところも見せた劉備でしたが、曹操がガチ布陣で来るとさすがに単独では敵わないと判断。
さっさと任地を捨てて南下すると、劉表の後継となった劉琮との交渉を行おうとしますが、あわよくばハイエナしようとしていた本心がバレバレで当然のごとく追い払われて退去。
おまけに、劉備と一緒に逃れてきた流民と共に移動している所を曹操率いる騎兵に急襲され大敗を喫しています。(長坂の戦い)
・・・さて。
その状況を踏まえて魯粛の進言を思い出しましょう。
魯粛の進言はあくまで、
「劉表の息子たちや劉備が団結しているようならこれと組む」
「バラバラであれば、機を見て荊州を攻め落とす」
という話でございました。
その計画は、劉琮が早々に降伏し、劉備軍も敗走してしまった時点でもう破綻しています。
・・・となれば魯粛が取るべき行動は、孫権と善後策を練るためにさっさと呉に戻るか、別の策を取るにしてもまずは孫権に相談するのが常識的な行動でしょう。
だが、魯粛は常識人ではなかった。
魯粛はここで、とんでもない独断行動に出るのです。
しばらくして戻ってきた魯粛。
魯粛:
「孫権様、劉備殿に仕える賢人・諸葛亮殿が交渉したいって言うんで、連れてきました!」
そう、魯粛は・・・
孫権に相談もせず、
独断で敗軍の将である劉備と交渉し、
独断でその軍師・諸葛亮を連れ帰ってきたという、
割とシャレにならない独断をやらかしたのです。
魯粛、劉備軍と単独交渉。諸葛亮を連れ帰る・・・
・・・そもそも。
当時の劉備を匿っても、孫権にとってはリスクしかありません。
むろん、敗軍の将でまともな兵力も持ち合わせていなかったのもありますが。
それ以前になぜかって、劉備という男の経歴を見れば一目瞭然でしょう。
なんせ当時の最高権力者である曹操にとって劉備は、許しがたい
「●ァッキン糞耳野郎」
いやいや、曹操は悪役扱いですが、ぶっちゃけ曹操から見れば劉備の方が相当ひどいことをやっていますからね。
・・・参考までに、曹操が劉備から受けた仕打ちをざっくり挙げますと、
①徐州で父の敵討ちを邪魔してきたうえに、ちゃっかり徐州の主になった
②呂布との戦いではその遺恨を水に流して援助し、呂布を討ってやった ③その後は何かと厚遇して、劉備を殺せという声も無視してまで最大限厚遇してやった ④にもかかわらず董承らとともに自分の暗殺を企て、袁紹と対峙してクソ忙しい時に兵を奪い取ったうえ、せっかく呂布を滅ぼして取った徐州を乗っ取り、背後から荒らし回ってくれた ⑤ブチ切れた曹操は大急ぎで徐州へ猛進して劉備を追い出す。が、今度は袁紹に身を寄せて南進を唆す。 ⑥官渡決戦の折には賊どもと組んで領内を荒らし回り、おかげで根拠地すら維持できなくなりかけ曹操ガチで敗北しかける ⑤袁紹を何とか破り、曹仁を派遣してフルボッコにしてやったがまたもや仕留め損ない、まんまと劉表のもとへ逃亡 ⑥今度は劉表の手先として、(もう何度目か分からないけど)曹操の勢力拡大を邪魔する |
・・・というように、曹操にしてみれば劉備とは、
「ツケ」が溜まりすぎて、もはや8ページくらいラッシュを喰らわせても足りないほどの男。
地の果てまで追いかけ、三族皆殺しにでもしなければ気が済まない外道。厚顔無恥。裏切り者。特S級賞金首。不倶戴天の敵・・・
・・・と、曹操から見れば劉備とはそういう人物。
そんな男をわざわざ匿うなど、孫権にとっては全くメリットがないどころか曹操に喧嘩を売りに行くような暴挙です。
常識的に考えればさっさと劉備などとは絶縁して、曹操に降伏する以外ありえない。
・・・が、あり得ないことが起こってしまった。
劉備のもとから魯粛が連れてきた諸葛亮。
これがまたとんでもない食わせ者でした。
「同盟しましょう!」と普通に言い出してくるかと思いきや、
「孫権殿、曹操にビビッて勝てないと思うならさっさと降伏した方が良いですよぉ?」
「まあ、我らの主君の劉備さまは皇族ですし、義を重んじる英雄なので降伏とかないですけどw」
と、あまりにも意外な、超・上から目線で孫権を煽ります。
そしてあろうことか、この諸葛亮の挑発的な言葉は孫権の自尊心を直撃。
この時点で、まだ若い孫権は7~8歳も年上の諸葛亮のペースにすっかり食われてしまいました。
ほぼ降伏で決まりかけていた孫権陣営は、思わぬ乱入者により完全にペースを乱されてしまいます。
諸葛亮と、それを連れてきた魯粛の思惑通りに。
おまけにこの時の魯粛の態度がなんともいやらしい。
主戦派筆頭であるはずの彼は何を思ったか、この状況で敢えて一言も発せず、様子を伺っているだけだったと言います。
紛糾する様子を眺めて白々しいポーカーフェイスをしていたか、はたまたニヤニヤと意地悪く眺めていたかは定かではありませんが、とりあえず張昭あたりが見たらぶん殴りたくなるような表情をしていたのは間違いないでしょう。
その混沌状態の中、葛藤する純粋な若者・孫権は、
「ちょいトイレ・・・」
と言って席を外してしまいます。(※誇張ではなく本当にトイレ(厠)と言った)
そして孫権のこの行動こそが魯粛の思う壺であり、三国鼎立の時代を決定づけるのでした。
魯粛、孫権を脅迫
トイレ(厠)へ立った孫権に忍び寄る影がありました。
そう、またしてもあの魯粛。
そっと後を付けてきた魯粛に気づいた孫権も、
「何か言いたいことがおありなのですね・・・?」
と訊きます。
思えば、魯粛が会議中に沈黙していたのはこれが狙いだったのかも知れません。
会議を紛糾させ、敢えて自分は無言でいることで存在感を放ち、孫権の注意を引く。
そして、こうして孫権が気にして二人きりになったところを直交渉で落とす。
そして、ここからは魯粛の面目躍如。
彼はここで、孫権に壁ドンしながら・・・かどうかは分かりませんが、主君の孫権を脅迫まがいの言葉で煽ります。
魯粛:
「先ほどからあの会議を聞いていれば・・・」
「まったくご主君を誤らせるような言葉ばかりで聞いていられませんなぁ」
「曹操に降伏ゥ?そりゃあ、私はそれでもぶっちゃけ構いませんけどね。」
「こう見えてもそこそこの家の出ですし郷里にコネもあるので。」
「そんな私なら曹操のもとでそこそこの地位で安泰に過ごせるでしょう。」
「ですが・・・貴方はどうなのです?孫権様?」
「私達とは違って」
「素性もよく知れない」
「成り上がりのあなたが」
「曹操に降伏した後、どこに身を落ち着けられるとお思いです?」
「・・・願わくば、あんなアホどもの言葉など聞き入れず、正しい判断をなさいませ(ニッコリ)」
魯粛の弁舌、詐欺師もかくやというほどです。
ですが、確かに孫権の立場を考えれば魯粛の言葉は正論です。
「孫子の子孫」などと大層なことを言っていますが、その実、孫家の素性は定かではありません。
実際、兄の代から陶謙や陸家などの名家には嫌悪され、軽んじられたという逸話も多数あります。
そんな孫家の立場を、一番よく分かっていたのは孫権自身でしょう。
縁故とコネこそが政治の世界でモノを言う後漢王朝、そしてその利益代表者である曹操軍において、孫権の居場所など果たしてあるのだろうか・・・
下手をしたら不穏分子として始末されるのではないか・・・?
魯粛は、その不安を巧みに煽ったのです。
それに対するピュアな孫権の反応、
「うむ!あなたの言う通りだ!」
「てゆーか、私もそう思ってたし!むしろその言葉を待ってたし!」
「あの連中の弱腰な意見には、ほんと失望だったわー!」
・・・などと「喜んだ」そうですが、強がりに見えるのは私だけでしょうか。
名にはともあれ、魯粛はこうして孫権を「脅迫」し、赤壁開戦を決意させてしまったのでした。
魯粛を「軍師」として見ると、そのスタンスは独特です。
法正や賈詡、郭嘉らは、正確に敵情を分析し、理にかなった進言で主君に勝利をもたらしました。
荀彧や程昱らはそれに加え、弱気になる曹操に対し
「あなたはこんなに優れている英傑だ!●●などに負けるな!」
と、本人をageつつ奮起させることで勝利に導きました。
しかし、魯粛は基本的に主君の恐怖を煽ることで決断させるという点が、彼らとはまた異なったタイプで興味深いです。
しかも勝算が薄い戦いに。
少し意地悪な言い方をすれば、魯粛は「軍師」というよりは博打士やペテン師といった表現こそが似合うかもしれぬ。
もし孫権が敗れていれば、魯粛は袁紹軍の郭図や逢紀のように「主君を無謀な戦いへ煽り立て、破滅へ導いた悪臣」という扱いをされていてもおかしくなかったと思われます。
いずれにせよ、孫権を決断させたのは、演義のように「諸葛亮の弁舌」ではありません。
むしろ諸葛亮は魯粛が望んだ状況を作り出す手助けをしただけであり、
魯粛の「脅迫」こそが、孫権に赤壁開戦を決意させたのです。
赤壁勝利、魯粛はまた孫権を煽る
そして、幸いにも狂気の博打士・魯粛には、そのバクチを現実の「勝利」に変えて実現することができる友がいました。
それが周瑜です。
孫権に赤壁開戦を唆したのは、間違いなく諸葛亮を連れてきたうえでトイレで脅迫して見せた魯粛の功績(?)ですが、やはり実戦においては周瑜の軍才こそがモノを言いました。
孫権の前で対曹操の軍略を披露した周瑜の言葉に、さらに調子に乗った孫権。
とうとう群臣の前で机の端を切り落とし、
「今後降伏を勧めるものがいたらこの机と(ry」
と啖呵を切って抗戦の意志を固めます。
そして。
勝ってしまった。
詳細は諸説あるのですが、いずれにせよ孫・劉連合軍は見事勝利し、曹操の大陸統一の野望は挫かれたのです。
この赤壁の勝利は、孫権軍内部のパワーバランスに大きな影響を与えます。
- 弱かった孫権の君主権が「自らの決断で勝利を招いた」という実績によって拡大
- 同時に面子丸つぶれとなった張昭含む「降伏派」の名士達の発言権が弱まる
- また同時に、周瑜・魯粛らの武闘派連中の発言力が拡大。魯粛に関する記述もこのときから露骨に増える
・・・あるいは、この赤壁の勝利で一番得をしたのは魯粛だったかも知れません。
事実、それまでに半分飼い殺し状態だった魯粛の実権は、赤壁を境に拡大していったと言っても過言ではありません。
魯粛の大博打は、見事勝利。
さて。ここでまた魯粛の人柄を伺える面白い逸話があります。
赤壁勝利後、孫権は復命した魯粛を自ら礼を尽くして魯粛を出迎えます。
当然、魯粛に頭が上がらないであろう孫権は
「子敬殿、私が鞍を手に下馬してあなたを出迎えたならば、あなたの功績を十分賞した事になるであろうか?」
と魯粛に言います。
まだまだ褒章として与える領土も金品も足りないであろう孫権には、精一杯の礼だったでしょう。
・・・が、魯粛は意外なことを言い出します。
魯粛「まだ足りないですねぇ」
孫権&近臣「ファッ!?」
魯粛「願わくば、あなたが天下を統一して帝王となり、御車の中から迎え入れてくれて初めて私は十分に賞された事になるのです」
うーむ、普通に考えれば、主君への格好いい発破・・・なのですが。
孫権にとってはプレッシャー以外の何物でもないのでは。
「てかまだ帝王諦めてなかったんかいこいつ!」と突っ込んだ者もいたのではないでしょうかw
赤壁のプレッシャーで孫権の寿命は10年くらいは縮んだと思います(享年71)
恐るべき魯粛。
演義のナヨナヨした文官的イメージはもはやどこにもありません。
トップに立とうとするわけではないが、単純な忠誠心ともいえない。ある種の野心すら垣間見えます。
そんな魯粛を孫権は内心どう思っていたか、非常に興味深いところです。
孫権・劉備のパイプ役として同盟を堅持。関羽との最後の交渉
孫劉同盟の成果と副作用
赤壁勝利後、劉備と孫権はともに曹操軍に対抗しながらも、荊州や益州をめぐって暗闘を繰り広げることになるわけですが。
何度か決裂の危機を迎えながらも、なんとか孫劉同盟は維持され続けました。
そしてそれは、紛れもなく魯粛のおかげです。
「曹操の敵を増やすことが上策であり、アンチ曹操の古参である劉備はとことん利用する」
というのが魯粛の基本戦略であり、孫権は魯粛が死ぬまでずっとその方針を守っていたわけですから。
そして、その策は結果的に一定の成果を上げたと言えます。
何せ、かの曹操も、その跡を継いだ曹丕らも、生涯江南を攻め落とすことはできなかったのですから。
ですが、魯粛の戦略は大きな副作用ももたらしたことは事実です。
なんせ、かの呂布をして「こいつが一番信用できない」と言わしめた男・劉備。
そんな劉備が、いつまでも孫権の思い通りに動くわけはありませんでした。
割愛しましたが、劉備との「緊急戦時協定」もかなり曖昧なもので、そこが劉備に付け入るスキを与えてしまったことは否めません。
しっかり協定を結んだところで劉備様が守ったかは分かりませぬが
「利用」するはずの劉備は、逆に孫権軍を利用して独自に勢力を拡大し、最終的には荊州南部および益州を支配するほどの大勢力となっていったのです。
孫権は完全に「蓋」をされ、益州方面への進出ができなくなりました。
赤壁直後あたりの劉備が孫権の「同盟軍」であったか、「客将」であったかは解釈が分かれるところですが、いずれにせよ劉備はしだいに孫権から独自した勢力として膨れ上がっていきます
さらに、頼りにしていた親友・周瑜も世を去ってしまい、孫権の勢力拡大はここから下火になっていきます。
一時は婚姻を結ぶなどして何とか劉備を懐柔しようとした孫権でしたが、かえって外交問題になる事件を引き起こすなど、効果はほとんどありませんでした。
そして、領土問題などでこじれつつあった劉備との関係が本格的に破綻の危機を迎えます。
魯粛、関羽を前に一歩も退かぬ交渉
劉備と孫権の関係が破綻寸前・・・というか一度破綻したこのとき、魯粛最後の見せ場が訪れます。
関羽との荊州返還交渉・・・俗に言う「単刀赴会」です。
先に述べたように、孫権と劉備の決裂の危機を招いたのは「荊州領有問題」です。
この問題は、後世から見ても色々な解釈が生まれるほど非常に複雑。
正直なところ、荊州問題でどちらに正当性があったか・・・という議論をしても始まりません。
危急存亡の状況だったとはいえ、そもそも両者の約定が曖昧だったのですから。
そしてその責任は独断で交渉を進めてしまった魯粛にもあります。
お互い譲れない、そんなこんなで積もりに積もった両軍の火種はどんどん大きくなり、最終的に武力衝突にまで発展してしまいます。
孫権軍は魯粛・呂蒙を中心に荊州南部を攻撃し、関羽はそれを迎え撃ち、さらには劉備も援軍として荊州へ赴くほどの事態。
敵の曹操は大喜びしていたに違いありません。
無論武力衝突だけでなく、和平交渉の動きもありました。
その過程で起こったのが、
劉備サイド・・・関羽
孫権サイド・・・魯粛
による「単刀赴会」だったというわけですね。
さて、演義での単刀赴会の大まかな流れは、
- 魯粛は荊州を返すよう関羽に詰め寄るも、はぐらかされる
- 関羽軍の周倉が口を出して関羽が怒鳴りつける
- 関羽、酔っぱらったふりで魯粛を盾にしながら港へ
- 魯粛、何もできないまま関羽を帰してしまう
・・・という感じでした。
しかし。
ここまでの魯粛の人柄を見てきた方々からすれば申すまでもないでしょうが。
正史での記述は全く逆の立場です。
- 魯粛は劉備の不義を糾弾しながら荊州を返すよう関羽に詰め寄る
- 関羽は何も言い返せず黙るばかり
- 関羽の部下が口を出すと魯粛がキレて怒鳴りつける
- 関羽が慌てて演義と同じセリフで部下を下がらせる
という、かなり印象の違うシーンとなっていたのです。
相手はあの関羽でしたが、魯粛はオドオドするどころか、気迫では圧倒しています。
・・・ただ、この交渉では結局話はまとまりませんでした。
それを考えればこの交渉は孫権軍にとって「失敗」ではありましたが、少なくとも関羽、そして劉備の面子を潰せたことは間違いありません。
何せ、陳寿がこのお話を『三国志』にまとめてしまったわけですからね。
もしこの時代に「陪審員制度」のようなものがれば、世評がこの舌戦にどうジャッジをしていたかは興味深いところです。
さて、話を戻します。
てんやわんやで劉備と孫権が争っているうちに、その隙を見逃さなかったのは曹操です。
涼州で暴れていた馬超を追い出し、漢中の張魯を降し、さらに韓遂という文字通り反乱をライフワークとしていた涼州の元気お爺ちゃんを平定。
ほぼ体制を立て直した曹操は、再度南進の機会を伺い始めます。
劉備にしてみれば、漢中を奪われることは益州に蓋をされるようなもの。
孫権も、合肥の戦いで張遼の前にちょうど惨敗を喫した時期。
劉備も孫権も、曹操の動きにより再度団結して対抗するしかありません。
なので、流石に荊州問題に決着を付けざるを得なくなりました。
結果、
- 孫権は占領していた零陵を劉備に返還
- 劉備は孫権に荊南東半分の長沙・桂陽の領有権を認める
- 劉備は零陵・武陵・南郡を領有する
という条件で劉備と孫権の和平は一応成立します。
なお曹操はこの報告を聞いて、箸を落っことすほど落胆したとか。
その後、荊州では関羽に呼応した者による孫権軍への反乱もありましたが、魯粛はこれをきっちり鎮圧。
孫権が要求した全土の返還こそなりませんでしたが、少なくとも半分は取り返すことに成功します。
しかし・・・
魯粛死す&その後
赤壁からノンストップで突っ走ってきた魯粛も流石に精力を使い果たしたのでしょうか・・・
217年秋ごろ、魯粛は46歳で亡くなりました。
孫権は大いに悼み、敵国の諸葛亮も魯粛の死を惜しんだと伝わります。
これまでのはっちゃけぶりを考えると、あまりにも地味な死でした。
魯粛の死因は?
なお、魯粛が亡くなった「217年」という年は、何気に大事件があった年です。
今を生きる我々にも縁のある話ですが、この年に曹操の治める中原で疫病が大流行したのです。
特に魏では「建安七子」と呼ばれた文人達が全滅するなど、多大な人的被害をもたらしました。
先に亡くなっていた孔融ら2名を除く5名全員が217~218年間に相次いで亡くなっています。文字通り「全滅」です。
なお、感染源になってしまったと思われる建安七子の一人・王粲は孫権軍との戦いの中で発病して死去しています。
感染源は、南方だったのでしょう。
もしかしたら魯粛の死因もこの疫病だったのでは?とも考えられますが、史書に魯粛の死因に関する記述はありません。
魯粛の死後
ここからは魯粛が亡くなった後のこと。
魯粛の「劉備を利用する」という戦略方針は放棄され、呂蒙の手によって荊南全土は孫権の手中に収められました。
後年、孫権は陸遜の前で
「魯粛の孫劉同盟路線は失敗だった」
との見解を述べています。
確かに、荊州絡みの問題では孫権は劉備にいいようにあしらわれていました。
周瑜、そして魯粛らが志していた「天下二分」も挫折し、孫権は絶好の機会を逃した・・・と言えなくもありません。
その責任の一端は、劉備を「利用できる」と「やや甘く」見てしまった魯粛にもあるでしょう。
・・・しかし、少なくとも孫劉同盟が機能しているうちはかの曹操もついに南進することができませんでした。
その子である曹丕の代以降も・・・。
そのきっかけを作ったのは、諸葛亮・・・ではなく、まぎれもなく魯粛です。
魯粛こそが、落ちぶれていた劉備を拾い、孫権に開戦を決意させ、赤壁の戦いに至る下準備をほぼ一人で行っていたのです。
後年、呉帝に即位した孫権は魯粛を思い出し、
「何だかんだんで、魯粛の言ったとおりになっちまったな」
としみじみと語ったと言われます。
ある意味魯粛こそ、三国時代を作った男だったのかも知れません。
魯粛が後世へもたらした影響と総評
「やくざ者」とは、もともと素行の悪い人間や、博打などで遊び惚けて役に立たない人間を指す言葉でもあります。
その意味での「やくざ者」という定義が似合う男を三国志に求めるなら、若い頃の魯粛こそが最も当てはまるのではないでしょうか?(笑)
富裕層に生まれた彼には、いくらでも他の生き方があったでしょう。
平穏に過ごす・・・とは言わずとも、その才覚があれば曹操なりに仕えて「そこそこの地位につく」ことも可能だったはず。
にもかかわらず、若い頃ははっちゃけ、わざわざ当時新興勢力であった孫権に仕えることを選んだ挙句、主君や中国大陸まで巻き込んだ大博打を打ち、
「曹操vs孫劉同盟」
という三国時代の土台を築いてしまったのです。
魯粛はなんとか劉備との友好・・・もとい利用を最後まであきらめていませんでしたが、結果的に孫権と劉備の関係が大いにこじれたことは否めません。
それが、のちの関羽の死や夷陵の戦いに繋がっていくことになります・・・
そういう意味では、魯粛はあの時代でもトップクラスの危険人物であり、混乱の原因を作った元凶とも言えます。
しかし、孫権に提示した「江東に割拠して中原を伺う」という方針を堅持したことは、後の中華史を見ればある意味ドンピシャでした。
少し時代を下って西晋時代、鮮卑によって滅亡させられた司馬氏の一族・司馬睿は江東に逃れて東晋を建国し、かつて孫呉が首都を置いていた建康を都としたのです。
もし、孫呉が頑張って江南を発展させてくれていなかったなら、司馬一族は行き場所もなく途方に暮れていたかも知れません。
そもそも呉がいなければ曹操はもっと早く曹魏統一王朝を作っていたかも知れませんし、その場合司馬王朝が誕生したかも分かりませんが。
・・・ゆえに、魯粛の「中原は乱れているから江東や荊州で機を伺え」という戦略は、ある意味斜め上の形で的中したとも言えます。
魯粛を「卓越した先見性の持主」と見るか、「とんでもない賭博士」と見るか、はたまた呂不韋のように「一発当てた投資家」と見るか。
それはかなり判断に迷うところではありますね(笑)
今となっては、魯粛の本心を知る術はありません。
私個人として思いますのは、魯粛は人生に「退屈」したくなかったのではないか。
資産家の家に生まれ、父を失ったとはいえ何不自由なかった生活。ゆえに魯粛は自分の人生に退屈していた。
別の言い方をするなら、退屈を誰よりも嫌い、敢えて自身の身を危険な場所へ置き続けた。
結果的に「新たな帝王を作り上げる」という魯粛の人生を賭けた大博打は半分成功し、半分失敗しました。
孫権は魯粛の死後、呉帝に即位します。
・・・が、結果的に呉は大陸統一には至らず、滅びてしまうわけです。
また、孫権と約束(?)した「皇帝になって自分を賞してくれ」という言葉も結局魯粛の生きている間に実現することはできませんでした。
ですが、魯粛本人は少なくとも満足のいく人生を送れたのではないでしょうか?
少なくとも「退屈」することは全くなかったでしょう。
そういうわけで、大胆不敵なる人生を送った彼に敬意を表し、
「真の博打ヤクザ軍師」
の称号を送り、魯粛の紹介を終えたいと思います。
拙い文ながら、最後まで読んでいただきお疲れ様でした!
そして、ありがとうございましたm( )m
魯粛が主人公の『後漢の投資家 魯粛伝』登場!
おまけですが、魯粛が主役の小説をご紹介します(笑)
史実の豪胆で危ない魯粛が見られる三国志小説は少ないですし、まして魯粛が主役の三国志作品は他に類を見ません。
勝手ながら、ご紹介させていただきます。
参考文献・参考サイト
そして、ツイッターで絡んでくださる皆様の考察
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