運が悪いのか、はたまた本人の行いが悪いせいなのか?
世の中には「貧乏籤」をよく引かされる人物がおります。
本日ご紹介する男もまた、「貧乏籤」ばかり引かされる不幸な男・・・と呼んでよいかも知れませんね。
・・・さてさて、
「黄祖」
という人物の名を出して、「誰だっけそいつ?」という三国志ファンは一定数いても、「ああ、黄祖ね!孫堅を討った劉表軍の名将だよね!」・・・などという好意的な評価をしてくれる三国志ファンは少ないのではないでしょうか(笑)
しかしながら。
この黄祖という人物、なんだかんだ言って三国志に登場する多くの重要人物と深い関係を持っておりますし、
特に軍事的にも「孫呉の宿敵にして仇敵」「劉表軍の長江防衛の要」というべき重要な立ち位置にいる人物でした。
具体的にいくつか黄祖の功績(?)を挙げますと、
- 孫堅を
事故に近い形で討ち取ってしまい、孫家から親の仇として文字通り死ぬまで狙われる - 曹操や劉表すら持て余した狂犬・禰衡をなぜか息子の黄射が連れてきてしまい、
堪忍袋の緒が切れてこれを自ら殺害する羽目に - 同じく壮年までチンピラをやってた札付きの狂犬・甘寧が部下になってしまう。当然ながら持て余してしまう。
- ・・・が、なんだかんだで孫策や孫権の侵攻を十数年もの間江夏の地で防ぎ続け、劉表が死ぬ208年まで孫呉の荊州方面への勢力伸長を許さなかった
・・・と、黄祖という存在の歴史における重要性は決して小さくありません。
特に、幾度となく苦戦しながらもずっと江夏の地に黄祖が居座って守り続けたことで、孫家の勢力拡大は大幅に遅れ、劉表は国を大いに発展させることができたのだ・・・という見方もできるのです。
まあ、偶然と言えば偶然かも知れませんし、孫策が死ぬ前後の江東における支配体制も決して盤石ではなく、体外戦争にかまけている暇があまりなかったのも事実でしょう。
が、孫策や孫権も「父の仇」である黄祖と幾度か交戦しており、その戦いは決して「小競り合い」と呼べる規模のものでもありませんでした。
戦いの中で孫家の一族である徐琨や、淩統の父である凌操が失われるなど、なんだかんだ言って黄祖は孫家を苦戦させていると言えるのではないでしょうか?
部下の甘寧への扱いなどでどうも「器量の小さい凡将」と見られがちな黄祖ですが、もう少し評価されても良いのではないかと思うのです。
あらゆる意味で、相手が悪すぎただけで。
そんな黄祖を調べるうちに、どうも彼には何かが憑いているといいますか。
持っているなという印象を抱きました(笑)
持っているというのは、
どうもこの男、貧乏神に愛されている。
というわけで、前置きはこのくらいにして、劉表軍の「東の守り」を一手に引き受け続けた悲劇(?)の守将・黄祖の生涯を追ってみたいと思います。
黄祖の生涯と概略
プロフィール
姓名 | 黄祖 |
字 | 不明 |
出身 | 不明 |
生没年 | 西暦???~208年 |
主君 | 劉表 |
正史略歴
劉表配下の武将として、劉表領荊州東部に位置する「江夏」の太守を務める。
191年、袁術派として荊州を攻撃してきた孫堅軍と交戦。
緒戦では苦戦するも、深追いをしてきた孫堅に猛反撃。たまたま部下の呂公が大将の孫堅を討ち取ってしまったため、孫堅軍をは瓦解。同時に長きにわたる孫呉との因縁が生まれる。
孫策軍の周瑜、あるいはその跡を継いだ孫権などに幾度となく任地・江夏は攻撃を受け続け、たびたび敗戦も味わうが、逆に孫家の名あり武将を討ち取るなど長きにわたって善戦する。
208年、曹操の南下(と主君・劉表の寿命)が刻一刻と迫る中、再び孫権の侵攻を受けるが、ついに黄祖も力尽きて江夏を奪われる。
逃走中、孫権軍の雑兵に討ち取られた。
その他、息子の黄射が連れてきた禰衡を殺害したり、部下となった甘寧を出奔させてしまうなどの人間的なトラブルに見舞われる不幸属性を持つ。
黄祖と他の人物との関係
劉表
黄祖が生涯を捧げた主君。(主君と言うよりは蔡一族のような協力者ポジションだった可能性も)
劉表は荊州を発展させて文化大国を築き上げたが、それは袁術や孫策が暴れまわる東部をしっかり守っていた黄祖の存在によるものが大きい。
208年、曹操が南下を開始して立場が危うくなる中、劉表自身も病死した。
黄祖も同年に討たれている。
孫堅
思えば、彼に関わってしまったことが黄祖の不幸の始まり。
劉表が孫堅に攻められるとその命で共に交戦。緒戦では敗れるも、視界の悪い茂みまで深追いしてきた孫堅を部下の呂公が射殺(崖から石を落として討ち取ったとも)。
孫堅軍は瓦解するも、結果的に孫家から目の敵にされる羽目になる。
黄祖の武勇伝にしてある意味最大の黒歴史。
孫策
孫堅の息子。父の死後、残された若い孫策は野垂れ死ぬか袁術の飼い殺しになるかしかなかったはずだが、残念ながら彼はそのどちらでもなかった。
袁術のもとで大いに活躍し、そして江東で事実上の独立。
その後もどんどん勢力を拡大し、父の仇ともいえる黄祖とも当然敵対。
彼による孫家復活が、事実上黄祖の死の遠因を作ることになった。
孫権
孫策の弟。兄が26歳で暗殺されたため、19歳で跡を継ぐ。
孫策が江東で恨みを買いまくっていたので、このガキンチョが跡を継いだところで勝手に瓦解するはず・・・と思ったら領内運営に関しては兄以上の才能があり、張昭や周瑜などの能臣も使いこなして復活。
孫策が死んでやっと一息つくどころか、国力も人材も拡張した孫権にかえって何度も攻められまくる羽目になる。
そして208年、黄祖は彼の侵攻によりついにトドメを刺されることに・・・。
甘寧
元部下。
荊州北部の南陽出身だと言われるが、諸事情により益州へ移住し、推定四十過ぎまで任侠をやっていたという筋金入りのヤクザ中年。
黄祖軍に加わった後も孫権軍の凌操を射殺するなどそれなりに活躍するが、黄祖からはあまり優遇されず孫権に寝返る。
ちなみに孫権に仕えてからもちょくちょく狂犬っぷりを見せている。
黄祖の黒歴史。
蘇飛
黄祖配下の都督。
どこからどう見てもDQNな甘寧とはなぜか気が合ったらしく、彼の才能を唯一高く評価していたという。
黄祖に対しても甘寧を重用するようたびたび進言しているが、聞き入れられず。
そこで、蘇飛は甘寧が孫堅のもとへ亡命しやすいように取り計らう。黄祖にしてみればいい迷惑だが・・・
のちに黄祖が孫権軍の前に敗死すると、蘇飛も処刑されるはずだったが、過去の恩を忘れていない甘寧が自分の武功に代えてでも・・・と助命を訴えたため許される。
黄射
黄祖の息子。
父の命で軍を率いることもあったが成果は上げられず。
なにをどう間違ったか、劉表が持て余して体よく追い払ったはずの禰衡と友人になってしまった上に、なにをトチ狂ったか黄祖のもとへ連れてきてしまう。
禰衡
曹操や劉表も持て余した狂犬。
いわゆる自分以外はバカに見える系の困ったさんだが、名声は高かった。
黄祖の息子・黄射が仲良くなったついでに連れてきてしまう。
黄祖も最初は礼遇するが、禰衡の相変わらずな態度にとうとうブチ切れて殺害してしまった。
演義では黄祖を「祠の神様(=貢物を搾り取るだけで何のご利益ももたらさない役立たず)」と評して怒らせたことになっている。
黄祖の黒歴史。
呂公
黄祖の配下で、史料によっては孫堅を討ったとされる人物。
彼の兵が、調子こいて深入りしてきた孫堅を討ち取ってしまったことで、かえって黄祖の人生が狂い始めた。
馮則
黄祖を討った孫権軍の兵。
雑兵の名が残ることはまずないにもかかわらず、彼がわざわざ名有りで記録されているということは、孫家にとって黄祖の死が非常に大きな出来事だったことが伺える。
独断と偏見で語る「黄祖」
黄祖の謎多き経歴
孫呉にとっては始祖・孫堅の仇であり、江東から荊州へ進出する際の大きな壁となって立ちはだかった黄祖。
そんな重要人物にもかかわらず、黄祖の経歴はあまり詳しく分かっているわけではありません。
- 出身地はどこなのか?
- どういった家柄の出なのか?
- 劉表や荊州の地元豪族との関係性はどうだったのか?
・・・などなど、考察の余地は多数あります。
残念ながら「三国志」にも「後漢書」にも個別の伝がない黄祖の人物像は、別の人物の伝に散在するわずかな記述から推測するしかありません。
(※これでも黄祖は、マイナー人物の中ではまだ記録がそこそこあって分かりやすい方)
黄祖は凡将か?良将か?
しかし、少ない記述ながらも黄祖に関してはっきりしているのは、
- 孫堅を討った191年から17年もの間、ずっと江夏を一手で守り続けていた
- 何度か手痛い敗戦も喫しているが、結果的に孫家の荊州進出は許さなかった
確かに敵側である孫呉の記録を見るに、黄祖の戦いは負け戦ばかりのようにも見えます。
まともに戦えば孫堅には軽くあしらわれ、
孫策や周瑜には、劉表の援軍込みでも歯が立たず、
戦上手とは言えない孫権にも何度か敗れ・・・
・・・こうして見ると、黄祖自身は大した武将ではなく、部下の能力と運で生き残ってきた凡将という見方もできるかもしれません。
・・・ただ、歴史書を読む場合に注意しなければならないことなのですが。
戦争の「勝敗」に関する記述というのは実際は負け戦でもわずかな戦果を誇張して「勝利」と言い張り、勝利は勝利でものすごく誇張して記載する・・・ということが珍しくありません。
ある戦いで「我が国が勝った!」という主張が残っているとしても、敵国の記録を見ると「真逆」のことが書かれている・・・なんてことも珍しくありません。※諸葛亮と司馬懿の戦いが好例
黄祖に関しても、劉表軍の勝利は意図的にトーンダウンさせられ、孫呉の勝利は大げさに誇張されている可能性も十分にあるのです。
黄祖や劉表は歴史上は「敗者」であり、当然長い歴史の中で劉表陣営の記録は失われてしまっています。
ゆえに今残っている黄祖の記述は、ほとんどが「敵側」の視点から書かれたものであることは一応覚えておくべきでしょう。
冷静に見れば黄祖は凌操や徐琨など、孫家の主要な武将を何人も戦死させていますし、これは孫呉にとってかなり痛手のはず。
そもそも、ただの「運」だけで果たして孫家の侵攻を10年以上もの間防ぎきれたであろうか?
・・・と考えれば、黄祖も決して「やられっぱなし」ではなかったはずです。
少なくとも、20年近くにわたって最前線ともいえる江夏を主将として守り続け、劉表に反逆することもせず、劉表が死ぬまでずっと孫家の侵攻を耐え続けた彼はもっと評価されても良いでしょう。
黄祖はそれほど狭量なのか?
黄祖については、以上のような考慮の余地もある「軍才」よりもむしろ「性格面」をあれこれ言われる場合も多いです。
具体的に言えば、
- 奇才として名高かった禰衡を怒って処刑してしまったこと
- 配下の甘寧を使いこなせず亡命を許してしまったこと
特に後者に関しては、甘寧が黄祖の下で手柄を立て、周囲にも重用することを進言する人物がいたにもかかわらず「それができなかった」ということを非難されがちです。
・・・ですが、よくよく考えれば上記、黄祖が関わってきた人物達は天下でも有数の問題児です。
まず禰衡は「唯才」がモットーの曹操ですらウンザリして追い出したほどの問題人物です。
しかも殺さず追い出した理由が「ああいう虚名のある人物を殺すと世間がうるさい」であり、本当は殺したかったと言っているに等しい。
また、禰衡の死に関して曹操は「ああいう男にはぴったりの死だ」と冷笑すらしており、曹操が彼をたらい回しにすることで間接的に誰かが殺してくれるのを待っていたとも取れます。
たまたまその役割が黄祖に回ってきてしまっただけで・・・。
しかも、そのたらい回しで黄祖のもとに禰衡がやってきてしまった原因は、よりにもよって主君の劉表と息子の黄射なのだから、黄祖にとっては呼んでもない狂犬を家に持ちかえられたようなものです。
正直、黄祖は泣いていいと思います(笑)
・・・そして甘寧に関しても、確かに後世「勇将」として讃えられる逸材ではありますが、当時の人間からしてみれば甘寧は
「40過ぎまで反◎活動で暴れていた危険人物」
でしかありません。
いくら才能重視の登用でも、こんなガチ犯罪者を手元に抱えて重用などすれば、世間からも部下からも信頼を失いかねません。
甘寧は、「壮年を過ぎてからヤンキーを辞めて突如学問に励んだ」などと美談風に言われることもありますが、孫呉に降ってからも全く本性は変わっていません。
実際、殺人沙汰や喧嘩沙汰を何度かやらかしたことが多々ありますし、呂蒙や孫皎などの重臣とも大喧嘩しています。
甘寧という人材は、
- 「アウトロー人材が多い孫呉という環境で」
- 「主君が孫権だからこそ使いこなせた人物」
と言って良く、もし曹操なりの下で中央政権に近い場所で活動していたら重大な規律違反を起こし、流石の曹操も持て余した可能性は十分あるのではないでしょうか?
黄祖の配下時代も記録がないだけで、数々の問題行動を起こしていた可能性はあります。
このように、黄祖が「冷遇した」「殺害した」人物は、当時でも有数の狂犬と言える人物ばかりなのです。
・・・むろん、黄祖も彼らともう少しうまく付き合う方法はあったでしょうし、体よく追い出せなかったのは「黄祖の器量や知恵の不足」という面もなくはないです。
しかしそれはあくまで結果論。
「黄祖が特別に狭量だった」と決めつけてしまうのは酷ではないでしょうか?
色んな意味で相手が悪すぎたと考えれば、黄祖の人間関係(?)についても同情の余地はあると思います。
貧乏くじを引き続けた男・黄祖
私が黄祖という人物を一言で表すなら。
とにかく徹底的にツイていない人物・・・でしょうか(笑)
より端的に申しますと、
貧乏くじを引かされ続けた男。
・・・彼の経歴を振り返ると、本当についていない。
あくまで防衛戦だったにもかかわらず、たまたま大将の孫堅が猪突して出てきてしまったために孫堅を惨死させてしまい、おかげで孫策・孫権に仇として狙われる羽目になります。
しかも孫策・孫権がほぼ野垂れ死にしてもおかしくないような状況から再起できる才能と運の持主であったことも黄祖には不幸でした。
しかも、よりによって彼らが旗揚げしたのが、任地・江夏の目と鼻の先にある揚州だったというのも最悪です。
黄祖は江夏という対呉最前線ともいえる地で、真正面からその脅威と戦わなければなりませんでした。
また、黄祖が問題児・禰衡を抱えてしまった経緯はもはやギャグマンガのような美しさ。
そもそも、禰衡は中原で名を上げた名士であり、曹操のもとにいました。
荊州にいる黄祖とは本来縁も所縁もありませんし、評判を聞いていれば「むしろ来ないで」くらいに思っていたでしょう。
しかし、黄祖にとっては完全に「事故」のような経緯で、禰衡がやってきてしまったのだから不幸ここに極まれり、です。
その経緯を簡単にまとめると以下の通り。
曹操:
「禰衡、正直鬱陶しいけどこういう奴を変に扱うと世間がうるさいしどうしよう?せや!劉表君に紹介するという形で追い出そう!」
↓
劉表:
「曹操め・・・とんだ問題児を押し付けよってからに。配下から苦情出まくりやし、左遷しとこ。」
↓
黄射:
「父上!劉表様のもとに居た大賢人・禰衡殿を連れてきました!」
黄祖:
「・・・・・は?」
このように、黄祖の全く手の及ばない不可抗力のような形で、禰衡はやってきてしまった。
まるで火のついた爆弾ロシアンルーレットを(しかも息子の手によって)回されたような格好になった黄祖は、結局禰衡を持て余し、最終的に処刑して汚名を被ってしまったわけです。
甘寧についても既にお話しした通り、正直誰でも手に余るような問題児でしたが、それを見事使いこなせる孫権(また孫家)という人物がお隣にいたために、またまた黄祖は思わぬ悪評を被ってしまいます。
おまけに、甘寧の亡命を手助けしたのはよりにもよって自分の配下の武将だった蘇飛であり、
蘇飛が甘寧を亡命させた先がよりにもよって×2な、宿敵・孫呉だというのも最悪でした。
・・・と、黄祖の経歴を改めてみると、もはや呪われているのかと思うレベルの不運の連続であり、同情を禁じ得ません。
彼がこうなってしまったのはもちろん本人の短気な性格もあったとは思います。それにしても不幸すぎるのではないでしょうか・・・。
黄祖の死とその後
黄祖、ついに死す
そんな数々の不幸に見舞われても、黄祖は208年まで頑強に抵抗し、孫家の猛攻をしのぎ続けました。
江東の暴風雨小覇王・孫策は200年に死去し、孫権が跡を継ぎます。
しかし孫権ものちに三国鼎立時代において覇を競うような人物。
孫権はガタガタになっていた領内を立て直しつつ、203年頃よりたびたび江夏への侵攻を企てます。
その配下には孫策が集めた兵士、そしてやがてはかつて黄祖のもとにいた甘寧なども加わり、その攻撃はむしろ激しくなっていく一方でした。
それでも黄祖はこれを防ぎ続けましたし、名有りの武将を討ち取るなどの反撃も見せています。
・・・しかし、そんな彼にも力尽きる時が来ました。
208年。
頼りにしていた主君・劉表は病気がちになり、後継者争いの不穏な空気も漂っていました。
北からは曹操の脅威も迫る。
黄祖はそんな絶望的な状況の中で再び孫権の攻撃を受けます。
そして、かつて自身との戦いで戦死した凌操の子・淩統の猛攻によってついに黄祖の本拠・江夏は陥落。
逃亡を図ったものの孫権配下の騎兵・馮則に討たれました。
雑兵なのに名前が残っているあたり、黄祖の死はよほど重要な功績とみなされたのでしょう。
黄祖により荊州進出を阻まれた孫一族
そんな黄祖ですが、彼はある意味命を懸けて孫一族に一矢を報いた・・・とも取れなくはないです。
先に述べた208年の江夏陥落により、孫権はようやく荊州進出の足掛かりを得ます。
・・・しかし、208年と言えばみなさんご存じの年代。
208年の赤壁の戦いは、孫呉と劉備連合の鮮やかな勝利として記録される戦いです。
しかし、赤壁で勝っても曹操は滅びるどころかますます地盤を強固なものとし、国力差は開く一方。
歴史的な意味を言うなら、赤壁の勝利はあくまで「曹操の天下統一をギリギリ食い止めた」程度の意味しかなく、その後の歴史を見ても、孫劉同盟は曹魏に大した打撃を与えられずじまいでした。
ハッキリ言って黄祖の死と江夏陥落は、孫権・・・そして孫家にとってあまりにも遅すぎたのです。
孫家が10年以上も江夏に手こずっているうちに、曹操は袁家を倒して華北(中原と河北)を制圧し、その勢いのまま南進を開始。
そして劉表が病死して混乱の続く荊州を、曹操は進軍開始からわずか数か月で制圧。
荊州を先に奪われてしまった孫権は戦略の見直しを迫られ、しかも強大化した曹操により苦境に立たされてしまいます。
その孫権の荊州侵攻が遅れに遅れてしまった原因こそが黄祖の頑強な抵抗でした。
もし彼がもう少しヘナチョコで、孫策なりにあっさり討たれていれば、天下の形勢は恐らく全く違ったものになったのではないでしょうか?
あくまで想像ですが、早い段階(200~207年まで)で孫策・孫権が荊州を抑えていれば、袁家と戦う曹操にとっても無視できない大勢力として南からちょっかいをかけることもできます。
また魯粛や周瑜、そして甘寧も提案したという、益州攻略を含む「天下二分」ももう少し早く実行できた可能性があります。
特に周瑜が死なないまま荊州を完全制圧できていれば・・・というのは恐らく孫家ファンなら一度は考えてしまうことでしょう(笑)
そういった孫家の(しかも結構あり得たかもしれない)「IF」が実現できなかったのは、まぎれもなく十数年にわたる黄祖の奮戦によるものです。
彼は最終的には敗者ですし、大して名を残すこともなかったのですが・・・。
しかしこうやって振り返ると黄祖はのちの三国成立にあたり、結構重要な役割を果たした人物といえるのではないでしょうか?
もし・・・黄祖がもう少しだけ長く耐えていれば、彼も劉表の子・劉琮ともども曹操に降伏し、安全を約束される未来もあったかも知れません。
・・・そう考えると、あと少しだけ長く生きていれば運命が好転したはずのフランダースの犬のネロ君的な不幸を思い出します。
そういうわけで、私、暇孔明はこの黄祖というミスター・貧乏籤に対し最大限の哀悼の意を。
そして、結果的に孫家の野望を阻んだ奮戦に最大限の経緯をここに示して彼の記事を終えたいと思います。
ここまでお読みいただいた皆様、ありがとうございました
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