三国志とは何か?ド初心者にもわかる「三国志入門」&開設之表

「暇孔明」です。

 

さて、このたびは

 

「三国志とは何?そもそもどういうお話なの?」

「そもそも三国志とはいつ、どこでの話ですか?」

 

というのをまだ知らない初心者の方に向けて、

魅力あふれる「三国志」の世界をご案内させていただきます。

 

当ブログのメインは「人物」なわけですが、

まずは三国志のだいたいの基礎知識を

身に着けてもらえたらと思います。

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]管理人の「暇孔明」です。非才の身ながら宜しくお願い申し上げます。[/word_balloon]

「三国志」とは何か?簡単に「いつ、どこの話か」をまとめてみた

「三国志」とは、

紀元2~3世紀(西暦184年~西暦280年あたり)の、

「中国の実際の歴史」をもとにした歴史書および物語になります。

 

その中で、主な「三国」すなわち魏・呉・蜀ぎ ご しょくと、

その国の武将たちが、それぞれ武勇知略を尽くし、

混乱した中国の覇権を争っていく・・・

 

三国志は、大まかに説明するとこういうお話です。

 

三国時代とは厳密に言うといつ?

三国志の時代は、一般的に「三国時代」などと呼ばれたりもします。

 

厳密にいうと、歴史学でいう「三国時代」とはいつなのかというと、中国に三人の皇帝が並び立った時代、すなわち・・・

 

「西暦222年に孫権そんけんが3人目の皇帝として即位した時」

から、

「西暦263年、三国の一角であったしょく国滅亡の瞬間」

までのたった約40年間の話になります。

 

ただし、現代の各種メディアにおいて一般的に「三国志の時代」として扱われるのは

後漢末ごかんまつ時代の西暦184年」から、

しん王朝が中華を統一する西暦280年」

までの約100年ほどとされているのです。

 

だから、先ほどのお話の定義を言い換えると、

「後漢末の武将たち、およびしょくの武将たちが覇権を争う時代(物語)」

という風に言い換えても良いかと存じます。

 

多くの日本の三国志のメディアでは、基本的に三国志と言えば後漢末ごかんまつ~三国時代の途中まで」をピックアップしてメディア化していることが多いですね。

 

不朽の名作である横山光輝よこやまみつてるさんの漫画「三国志」が好例ですが、

黄巾こうきんの乱」から始まって「西暦234年の諸葛亮しょかつりょうの死」までが話の中心で、

それ以降はダイジェストでまとめてしまっている場合も多いです。

 

正史せいし三国志演義さんごくしえんぎ(後述)の原作では一応ちゃんと(西)晋せいしんの天下統一」まで話が続くのですが、正直言って諸葛亮しょかつりょう孔明こうめい)死後の三国志は人気がない。

 

まあ単純に言えば、諸葛亮しょかつりょうの死後の三国志は、初期の主要人物は皆亡くなり、派手な戦いも減り宮廷陰謀や内部闘争のような胸糞悪いストーリーにだんだんとシフトしていってしまうわけです。

 

イメージしやすい感じで言いますと、ドラゴンボールで孫悟空もベジータも皆亡くなって、子孫達による蹴落としあいやドロドロの人間関係ドラマに変わっていくようなイメージです。

自分で書いててクソつまらなそうな設定だw

そんなわけで三国末は人気がない・・・というわけです。少なくとも一般受けはしません。

 

・・・ですが、諸葛亮しょかつりょう死後の三国時代も近年は注目されています。

ゲーム「三国無双さんごくむそう」に「しん」の勢力が正式に追加されたり、諸葛亮しょかつりょう死後の三国志を主題にした書籍なども出ています。

 

これは、新しい風を三国志界隈に吹き込む非常に良い流れかと私は思っております。

三国末も三国末で、魅力的な人物、ぶっ飛んだ人物はたくさんいますからね。

 

せっかくなので、ここでは「晋の統一」まで、三国志の時代100年間の流れを一通り解説しましょう。

 

まずは、あなたに「三国志とは何か」を知っていただくのがこの記事の目的ですから。

 

[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]このブログの主題たる「人物」や、三国時代の詳しい歴史の流れについては、別記事でどんどん解説しておりますので、気に入りましたらそちらをご覧あれ。[/word_balloon]

 

「三国志」とは何か?簡単に「時代背景」と物語の流れを説明します!

~序章~後漢王朝の衰退と「黄巾の乱」

時は後漢末ごかんまつ時代。西暦180年代・・・

当時中国を支配していた統一王朝である後漢王朝ごかんおうちょうは、衰退の一途を辿っておりました。

具体的に当時の「後漢」の状況を挙げますと、

  • 異民族は攻めてくるわ
  • 短命な皇帝が続いて支配力は弱まるわ
  • 現皇帝も頼りないと評判の人物だわ
  • 外戚が政治を仕切って皇帝をも操り、政治を腐敗させるわ
  • 清廉な政治家は容赦なく投獄されたり消されたりするわ

などなど、既に国として健全な状況ではなく滅亡フラグが立っている状況でした。

そんな悪政&飢餓&異民族のコンボに苦しむ民衆は、後漢王朝に対する不安と不満を溜め込んでいきます。

そして・・・そんな社会不安の中、民衆は国ではなく「宗教」に救いを求めるようになりました。

それが、道教の流れをくむ宗教団体「太平道」

 

しかしこの太平道、ただの宗教団体ではなくほうという事実上の軍組織まで持っているなど明らかに国家転覆を狙った宗教団体でした。

 

そしてついに運命の西暦184年

 

宮廷内にスパイとして忍び込んでいた太平道メンバーが後漢王朝に処刑されたのを機に教祖である張角ちょうかくは信徒に一斉蜂起を命じます。

 

後世にいう黄巾の乱こうきんのらんの始まりです。

(信徒たちが黄色い布を頭に巻き、仲間の証としたことが由来)

 

黄巾の乱は一気に中原・河北(中国北東部)を中心に広がり、一時はなんと、後漢ごかんの首都・洛陽らくようをも脅かす勢いでした。

 

黄巾の乱勢力図

黄巾の乱

引用 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yellow_Turban_Rebellion.jpg?uselang=ja

 

一方、当の後漢王朝は政治腐敗や財政難でボロボロで、当初派遣した直属討伐軍は内ゲバや足の引っ張り合いで思うような戦果を挙げられない有様でした。

 

最終的には各地の軍閥ぐんばつ豪族ごうぞく義勇兵ぎゆうへいの力も借りて、

後漢ごかん王朝はなんとか黄巾の乱こうきんのらんを鎮圧することに成功します。

 

そして、この時に活躍したと言われるのが当時は後漢ごかんの官僚として働いていたが、後に国を立てることになる

曹操そうそう

 

孫策そんさく孫権そんけんの父で、国の「始祖の始祖」ともいえる

孫堅そんけん

 

義勇兵ぎゆうへいとして黄巾の乱こうきんのらん討伐に参加し、後に苦難の末しょく国を立てることとなる

劉備りゅうび

 

でした。

 

この「黄巾の乱こうきんのらん」をきっかけに、三国志の英傑たちが活躍し始めたのです。

 

[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ここまでのまとめ・・・

後漢末時代、政治腐敗・飢餓・異民族侵攻などにより社会不安がまん延、184年に「黄巾の乱」が勃発し、三国時代の英傑たちが活躍のきっかけを掴みます[/word_balloon]

 

止まらぬ後漢王朝の衰退と、軍閥・豪族の台頭

地方豪族・軍閥の協力もあって何とか「黄巾の乱こうきんのらん」を鎮圧した後漢ごかん王朝。

 

ですが・・・後漢王朝はこの事後処理で大きなミスを犯します。

 

それは、各地方の行政を総括する「刺史」に対して、さらに軍事権を加えた「州牧」を新設し、乱の討伐に功績のあった豪族や武将、名士を片っ端から任命したこと。

 

つまり、「行政権」だけだった都道府県知事が独自の「武装権」まで得てしまうようなもので、当然のごとく州牧はその地でやりたい放題できてしまうということ。

弱体化した後漢ごかん王朝では「抑えきれない」ほどに。

 

しまいには、王朝から正式に州牧に任じられた者の中には、明確に後漢皇帝をないがしろにして、独立勢力化する連中も現れます。

 

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]この時点で、のちの群雄割拠や三国時代に至る導火線が完成させられたとも言えます。
ほかならぬ後漢皇室自身の手によって(笑)[/word_balloon]

 

そんな中、当の後漢王朝はと言いますと、皇帝を操ろうとする外戚がいせき派」「宦官かんがん派」権力闘争の真っただ中。

 

やがて、両勢力の殺し合いが発生し、その混乱の中で「後漢皇帝」が都から失踪、その身柄はたまたま都へ向かっていた地方軍閥の董卓とうたくの保護下に置かれるという事件が発生。

 

ここに至ってとうとう皇室は地方軍閥の操り人形になったのです。

 

その後の中華は、もはや後漢皇帝のためではなく各々の利権と野心に向けて戦う者ばかり・・・。

 

いうなれば、当時の中国は日本で例えるなら、「室町幕府」が衰えた「戦国時代」のような状態になったのです。

 

190~192年頃の勢力図
三国志 群雄割拠1

(引用 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eastern_Han_in_191_to_192.png?uselang=ja)

 

この後漢末の群雄割拠ぐんゆうかっきょの時代はおそらく一番魅力的な登場人物も多く、三国志全体を通しても非常に面白い時代です。

 

ゲーム「三国無双」の代名詞ともいえるかの「呂布(りょふ)」などもこの群雄割拠の時代に活躍していた人物です。

 

また、群雄割拠時代は終わりつつあるものの、「三国志」最大のハイライトともいえる赤壁せきへきの戦い」も三国が成立する前のお話です。

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]蜀の軍師である「諸葛亮」が登場するのも赤壁あたりからです。[/word_balloon]

 

[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” font_size=”16″ box_center=”false”]ここまでのまとめ・・・

後漢王朝は、黄巾の乱討伐後も政治腐敗などの根本原因を正すことが出来ず、内ゲバで衰退の一途を辿ります。

さらに、地方の軍事・行政権を一手に握る「州牧」新設など、地方軍閥や豪族の台頭を許し、中華は戦乱へと突入します。[/word_balloon]

 

勝ち残った三国による「三国時代」本番へ・・・

そして戦乱の中、

特に力をつけて勝ち残ったのが

 

曹操そうそう(+曹丕そうひ

孫権そんけん(とその一族)

劉備りゅうび

 

という人物達で、彼らはそれぞれ

3つの「国」を建てることとなります。

 

後漢を最終的に乗っ取る形で皇帝の座を得て、

華北を中心に「最大勢力」を誇った曹操そうそう曹丕そうひ

 

後漢の勇将・孫堅そんけん孫策そんさくが築いた人材と地盤を受け継ぎ、

江東の地で中原とは違う独自の勢力を築いた孫権そんけん

 

「漢王室りゅう氏の末裔」という肩書のもと、魏を「劉氏から天下を奪った逆族」、自らを「正義」として劉備りゅうびが巴蜀に建国した

しょく(蜀漢とも)

 

しかも、それぞれの国の「君主」が、皆最終的に「皇帝」を名乗ってしまいました。

 

三国時代(221~263年頃)の勢力図

(引用 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sanguo_map.jpg?uselang=ja)

 

すでに「魏王(皇帝の一個下の地位)」に封じられていた「曹操そうそう」でしたが、彼自身は「皇帝」にまではなりませんでした。

 

が、その息子曹丕そうひが後漢を滅ぼし、「魏の皇帝」になったのが西暦220年。曹操の死後まもなくのことで、準備はあったのでしょう。

 

続いて「後漢皇帝の劉家と同族である」と名乗る劉備りゅうびも、「恐れ多くも、後漢を乗っ取った悪の魏国」に対抗すべく、蜀漢しょくかんしょく)の皇帝」を名乗ったのが翌年221年

 

お前らが皇帝になるなら俺もなるノリなのか、続いて孫権そんけんも同じく「呉の皇帝」に即位。222年のことです。

 

こうして、三人の皇帝三つの帝国が天下を争う「三国時代」となったのです。

 

本来、「天によって選ばれた皇帝=天子」は、中国において「一人」しか居てはいけません。

 

しかし、三国志の時代は(おそらく)中国で史上初めて「三人」皇帝が並び立ってしまった「異常な時代」でした。

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ちなみに、後漢皇帝をさしおいて皇帝を名乗った男が、群雄割拠時代にもおります(笑)[/word_balloon]

 

そんな時代の中、優れた武将・軍師など、多くの人物達が活躍しながら中国の覇権を争う。

 

これが、三国志です。

 

[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ここまでのまとめ・・・

後漢王朝が衰退し、軍閥が力をつける中、最終的に勝ち残ったのが

「曹操」
「孫一族」
「劉備」

の、三勢力。彼らがそれぞれ「国」を立て、それぞれが「皇帝」を名乗ったことで三国時代が始まります。[/word_balloon]

三国志とは「勝者なき」戦い。最後は「晋」王朝が天下を統一

最終的に残った三国は、それぞれ時に和し、時に戦いながら何十年にもわたってしのぎを削ります。

 

・・・ですが、

「三国志」で最終的にどこが勝ち残ったか、意外に知られていないとは思いませんか?

 

どこが勝ち残ったと思われます?

 

・・・

 

正解は、「誰も勝者にならなかった」

 

冒頭で書いたことを覚えていますか?

 

「280年にしん王朝が天下を統一した」

 

・・・と。

 

つまり、三国時代は「魏でも呉でも蜀でもない」このしんなる国が、最終的に天下を統一した=最終的な勝者となったわけですね。

 

この「晋帝国」を立てて天下を取ったのは、

司馬炎しばえん

という、もとはと言えばの臣下だった人物。

 

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]この司馬炎の祖父が、蜀の「諸葛亮しょかつりょう」の北伐を防いだ散々邪魔してくれたライバル・魏の「司馬懿しばい」です。[/word_balloon]

 

彼がを乗っ取ったのは「西暦265年」。

 

少し前の西暦263年のしょく討伐(滅亡)や、国内で起こった反乱の討伐において司馬一族はどんどん力をつけてしまい、

いつの間にか主人の皇帝である曹一族よりも発言力を持つようになってしまっていました。

 

一方、魏帝国は、曹丕そうひ曹叡そうえい二代続けて短命な皇帝が続き、跡を継いだ幼い皇帝は司馬家に逆らえなくなるという、後漢王朝と似た衰退パターンを辿っていた真っ最中。

ついでに、曹丕そうひから5代続いた「魏の皇帝」ラスト3名は、

3代目・曹芳そうほう:暗愚で皇帝に相応しくないと司馬氏にイチャモンをつけられ廃立

4代目・曹髦そうぼう:↑の代わりに司馬家によって魏帝に立てられるが、司馬氏を除こうとしたため返り討ちに弑される

5代目・曹奐そうかん:↑の代わりに司馬家によって魏帝に立てられるが、最後は帝位自体を司馬氏に奪われた

 

と、いずれもまともな最期を迎えなかったのです。

 

最終的に司馬炎しばえんは、魏がかつて後漢に対してやったように、魏の最後の皇帝・曹奐そうかんに対して、「半強制的に」帝位を譲らせ皇帝になっています。

 

一方、呉の方も孫権そんけんの失政によって起こった後継者争い(二宮にきゅうの変)などによって、数多くの有能な重臣・一族を失っていきます。

 

しまいには、呉の皇帝を補佐すべきはずの孫家の一族が権力を悪用して暴政を布いたり、呉の皇帝も短命、廃立、最後は暴君が出るなど、司馬炎が登場するころには完全に衰退していました。

 

そして西暦280年、最後に残ったもまた、万全の体制を整えて攻めてきたしんによって滅ぼされます。

 

こうして天下は、三国ではなく「魏の基盤を乗っ取った」「晋」という新興国が治めることになったのです・・・

 

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ところが、天下を取った西晋もまた内乱によって衰退し、北方の騎馬民族である「鮮卑族」の侵攻であっけなく滅ぼされてしまいます。合掌。

なお、残った一族は江東に逃れて「晋」を復活させました。歴史上、司馬炎の立てた晋を「西晋」、鮮卑の侵攻で一族が江東(南)に逃れて復興した晋を「東晋」と区別して呼びます。[/word_balloon]

 

以上が「三国志」の大まかな時代背景となります。

 

「三国志」というのは、

「後漢末の黄巾の乱から、三国が並び立っていた時代、および晋の統一までの100年のお話」

であることはまず押さえておきましょう。

 

また、

「厳密に言えば、222年から263年の蜀滅亡までの40年が三国時代」

「だが、黄巾の乱や群雄割拠時代が一番面白いため、実質的に全部三国志と呼ばれる」

「三国志の最終的な勝者は、魏でも呉でも蜀でもなく、魏を乗っ取った晋の司馬一族」

というのも、基礎知識として知っておくといいかと思います。

 

[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ここまでのまとめ・・・
三国争覇の末、西暦263年に蜀が魏によって滅亡。
次いで西暦265年、蜀を滅ぼした魏もまた「晋」に取って代わられます。
そして280年、最後に残った呉も晋に征服されて「三国志」は終わりを迎えました。[/word_balloon]

「正史三国志」とは、「三国志演義」とは何か?

さて、「三国志」の大まかな流れは理解していただけたと思いますが、実はもう一つ「三国志」を語るうえで、是非知っていただきたいことがあります。

 

それは、我々が今日目にする「三国志」には、大きく分けて二種類の三国志が存在するということ。

 

一つは、三国時代を終わらせた「晋」の官僚・陳寿が、魏・呉・蜀各国が残していた歴史書をまとめ晋国のための正式な歴史書として編集した「三国志(正史せいし)」。

 

もう一つが、その正史の流れをもとに構成された明代の半架空小説である「三国志演義えんぎ(作者は羅貫中らかんちゅう)です。

 

さらに、正史をベースに晋の立場では書けなかった裏話や、他の文献に残った後漢~三国時代の人物の話を「注釈」として正史に書き加えている場合があります。

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]有名なのは、「裴松之(はいしょうし)」という人物。

彼は膨大な書籍や史料を読み解き、そこに独自の解釈を入れながら正史・三国志に注を入れてくれています。[/word_balloon]

 

この裴松之注も一応「正史」と区分する方もいますが、この注釈のソースというのは陳寿の書いた「正史三国志」以外の膨大な史料や説話集をもとにしており、

信憑性の高い「史料」から、割と後世からデタラメくさいと評される書物、果てはオカルトや民間伝承まで内容はピンキリ。

 

果ては裴松之個人のバイアスかかりまくりな評価や考察もごちゃまぜになっているので、そこもますます「史実とフィクション」「正史と演義、それ以外」などなど「話の出どころ」の判別を困難にしているわけですね(笑)

 

三国志に詳しくない方は、「正史」「演義」をしばしば混同しがちですし、もっと言えば、三国志中級者以降でも、「正史」「正史ではない歴史文献がソースの話」をしばしば混同してしまいがちです。

 

ただ、混同すると話がややこしくなりますし、三国志トークが荒れるもとになりかねない(後述)ので、是非この違いは「基礎知識」として知っておきましょう。

そうすれば、話の混乱や誤解も防ぎつつ、平和に三国志トークを行えるかと存じます。

 

ひとまずここでは、

「三国志演義」「正史三国志」

「その他同時代のことに言及した史料や逸話の数々」

が存在することを知っていただければ問題ございません。

 

「三国志」といえば、小説の「三国志演義」が人気を博した

世間一般に「三国志」と言われたら、それは基本的に小説「三国志演義さんごくしえんぎ」のことだと思って、まず差し支えないでしょう。

 

しかし、一部のマニアや専門家の間ではむしろ歴史書である正史せいしのほうが注目され、初心者の認知度も徐々に上がってきています。

 

むしろ、最近は一種の「反動」によって、「演義えんぎ」を過剰に否定する者も出てきていますね。

 

が、そもそも「三国志」をここまで世に広めたのは小説の「三国志演義」なのです。

 

現に、今私達日本人が読んでいる「三国志」の漫画・小説、ゲーム、あるいは本場中国のTVドラマ・・・

 

これらすべて基本的には「三国志演義」をベースに作られていることから、世間ではまだまだ「三国志=三国志演義」として認知されていると言えるのではないかと思います。

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]ついでに、小説「三国志演義」にも実は「細かいバージョンの違い」があるのですが、それはまた別の機会に(笑)[/word_balloon]

 

ただ、この三国志演義さんごくしえんぎは大枠はかなり「史実=正史」に沿って書かれているものの、そこはあくまで小説。

 

  • 史実の人物像とかけ離れたものになっていたり
  • 正史では立派な人物が悪役化・小物化されていたり
  • ひどい場合は存在すら抹消されたり
  • 史実外の酷い死に方をさせられたり

 

・・・といった脚色ゆえの問題点も小説「三国志演義」には非常に多いのです。

 

特に、魏や呉、後漢末の英雄達のファンも増えた昨今では、正史を知った方々からそういった問題点を指摘されることも多くなってきておりますね。

 

たとえば私「暇孔明」の由来である「諸葛亮(孔明)」などが良い例です。

なんせ演義自体「蜀主役」で書かれた小説ゆえ、諸葛亮は「完璧超人」みたいに脚色されまくっています。

  • 天候を操ったとか、
  • 知略により一晩で10万本の矢を集めるとか、
  • 妖術や猛獣を使う南蛮の異民族を知略で圧倒したとか、
  • えぐい策略や用兵術の数々で魏・呉の名将を翻弄したとか、
  • 敵の重臣数名を、手紙を送っただけで憤死させたとか、
  • リアルレスバトル(舌戦)でも敵を憤死させたとか

演義の諸葛亮しょかつりょうはかなり「人間離れ」した描写が多いのです。

 

が、もちろんこの手の逸話はだいたい「演義」の創作

おかげで最近は、正史の諸葛亮を知った方々から「諸葛亮は演義で脚色された過大評価筆頭!」などと、「正史で実像を知ってしまった」三国志ファンによって叩かれることも多いです。

 

でも、自分の死後に、勝手に人物像を脚色された小説が出回り、それが「嘘だったから」といって、脚色「された」本人がなぜか叩かれる。

よく考えればなかなか理不尽ですね(笑)

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]・・・あ、臣亮、顔は笑っていますが、心は泣いておりますからね?

史実の諸葛亮(孔明)も、なんだかんだ結構すごい人物です(迫真)[/word_balloon]

 

・・・それはともかく。

 

確かに「三国志演義」のせいで、良くも悪くも人物像を歪められたり、不憫な扱いの人物も大勢いるのは確かです。

 

有名な例で行けば、悪役にされた曹操とか、諸葛亮の噛ませ犬にされる周瑜・魯粛とか・・・

 

それゆえ、私がこのサイトで三国志の人物を語るにあたって「演義」はもちろん「正史」等で書かれている活躍、意外な一面もしかと紹介していきたいと考えております。

 

しかし、それは演義を否定するためではなく、正史を否定するわけでもなく、

「より三国志に登場する人物の魅力や一面を知って楽しんでいただく」

ためのものです。

決して、他のファン対してマウントを取ったり、その人や過去の人物を貶めるようなものにだけはならないようにせねばなりませんね。

それをやってしまうと、

「三国志を楽しんで、好きになって欲しい」

というこのサイトの趣旨に反することになりかねません。

 

それに、いくら知識が優れていると言って、それで他者にマウントを取るが如き振る舞いは、中国の古の賢人・聖人も嫌っていたことだと、私、暇孔明は認識しております。

 

歴史を学ぶとは、こういった自分の振る舞いや生き方の「手本」を過去の人物から得ることが、大きな目的の一つではないでしょうか。

 

なので、当サイトが平和に運営できるよう、読者の皆様方におかれましては、どうご理解とご協力のほどをお願い申し上げますm( )m

 

話がいささか逸れましたが、本題に戻って今度は「正史」についてお話ししましょう。

 

正史・三国志の成立過程

そもそも、正史ではなく小説・三国志演義の方が「三国志」として世に親しまれたのは理由があります。

 

要するに、正史は「読み物」としては司馬懿の詩くらい何のひねりもなく、面白くない代物なのです。

 

まあ、歴史書ですからね(笑)

 

裴松之はいしょうしをはじめ、正史に情熱溢れる注釈を入れた後世の方々のおかげでだいぶマシにはなりましたが、正史というのはあくまで「歴史書」ですので、「読み物としての面白さ」を求めるのは酷でしょう。

 

ただ、ここも注意点なのですが・・・

では、正しい歴史を知るためにならば、正史は完璧万能な書物なのかというと、それもちょっと違うので少し気をつけねばなりません。

 

というのも、正史三国志は、西)晋王朝の官僚が書いた書物。

つまり、「晋」を正当化するための意図が「多分に」含まれた書物だということ。

晋や、晋の前身である魏に逆らうものは「逆賊」「天道に背く愚か者」でなければなりません。

よって正史の記述がすべて公正な真実か?というとそれもまた違うわけです。

一応、三国志はもともと三国が「魏志」「呉志」「蜀志」という形で残していた歴史書を「編集してそれぞれ仕上げた」形になっているのですが、実際は晋王朝に対して割と孫策忖度した記述も多いのです。

なので先ほど紹介した裴松之はいしょうしなどが、

「政治的な理由で正史には書けなかったであろう事実」

を後の時代になってかなり補足してくれています。

端的なのが、司馬昭による魏帝・曹髦弑逆事件に関する記述です。

この部分、なんと元々の「魏志」では「皇帝が崩御なされました。マル。」と、非常に簡潔に記述されてしまっています。

なんでこうなったかというと要するに、

晋王朝の立場として、晋王朝の始祖ともいうべき司馬昭が「皇帝を操り人形にした挙句反発されてぶっ殺しました」などと記述するわけにはいかない

・・・・というわけで、「真実をぼかした(嘘は言ってない)」書き方になったというわけですね。

そういった部分を裴松之などがしっかり補足し、あの事件は「暗殺」であったと真実を明らかにしてくれているわけです。

なので、正史(およびその注釈)を読めば「100%ではないがまあおおむね史実がどうだったかは分かる」程度にはなっています。

 

ただ、それらの補足も完璧ではありません。

  • 「確証はない、または伝聞レベルの話も多数あり」
  • 「たまに注釈者の私情が入りすぎ」

という問題も多々あるため、事実認定には十分に気をつけるしかありません。

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]この裴松之もなかなかクセの強い人物で、理論的に考察するかと思えば、他の歴史家を「アホ」「その理屈はおかしいだろwww」などとやや感情的にこき下ろしたりするかと思えば、

「俺の推しの審配(袁家を支えた忠臣と言われる)が井戸に隠れるなんてダサい真似するわきゃあねーだろルぉぉぉぉぉ!?」

などと、推しの人物の前では理屈も何もない私情全開でハッスルしたり、よく分からないおっさんだったりします。(それでも自分の考察と事実の区別はきちんとしているのが偉いところですが)[/word_balloon]

 

さらに言えば、これら注釈者をもってしても見つけ出されなかった真実・・・完全に隠匿されてもはや誰も知らない「歴史から抹消された事件」なども裏に多数存在するかもしれない。

三国志のみならず歴史全般に言えることですが、その点は常に頭に入れておいていただきたいのです。

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]先述の「注釈」なども可能な範囲で活用し、その人物の実像を理解、または想像する一助にしていきたいと思います。[/word_balloon]

 

そういう前提で、私、暇孔明はあなたを含めた皆さんに、

 

「できるだけ平等に人物や出来事を評価したうえで」

「他のファンといさかいを起こすことなく」

「平和に皆で三国志を楽しんで欲しい」

 

と、考えておりますので、重ねて、重ねて、まずはそこを深くご理解くださいね。

 

[word_balloon id=”1″ position=”R” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]できるだけ色々な視点から各人物の生き様を探るため、「正史三国志」をはじめ、後漢末や三国時代の史料はできる限り探して読みたく思います。「後漢書」や、詳しい方の「ブログ」なども「参考文献」として使用させていただきます。[/word_balloon]

 

みんな違って、みんないい。あなたなりの「三国志」の楽しみを。

私は、正史も演義も愛しております。

 

だからこそ当ブログは、いろんなタイプの三国志ファンに対して「●●は認めない!!という、排他的なブログにはしたくないと存じます。

もちろん「小説と史実の区別」はした上でですが、「いずれの解釈も絶対ではない」ことを認めて、両方とも楽しめばいいと思っております。

 

私の一番の目的は、

「三国志という時代、そして人物の魅力」

を後世に伝えることです。

 

それがあなたの人生に勇気や教訓、信念を与え、少しでも「生きる糧」「自分の軸」になれば、いち三国志ファンとしてこれに勝る喜びはありません。

そして、それこそが「歴史を学ぶ本当の意味」だと私は考えております。

私も極力「正確さ」「史実と虚構の区別」はしかと追求したいと存じておりますが、執筆活動の中で普通に勘違いや解釈違いを起こすかと存じます。

その際は、詳しい方が、優しくご指摘いただければ幸いですw

 

それでは、全世界の三国志ファンの皆様におかれましては、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

[word_balloon id=”1″ position=”L” size=”M” balloon=”talk” name_position=”under_avatar” radius=”true” avatar_border=”false” avatar_shadow=”false” balloon_shadow=”true” avatar_hide=”false” box_center=”false”]願わくば、非才を尽くして「三国志」の普及と継承を果たさんとす・・・[/word_balloon]

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