劉禅:乱世の暗君は「どうあがいても滅亡」の運命からどう生き残る

 

皇帝になんて、別になりたくてなったわけじゃない。

 

「拒否権」というものがあるのならば、こんな滅亡確定の弱小国の皇帝なんてたぶん誰もなりたがらない。

 

・・・でも、

バリバリ血縁主義の時代に「皇帝の子」として生まれてしまったのだから、皇帝になるしかない。

 

もし私が異世界転生でもしてそんな立場に生まれ変わったら、
どうやってその局面を乗り越えるか?

というか乗り越えられるのか・・・?

 

・・・ふとそんなことを考えさせられてしまう人物が、今回ご紹介する

蜀漢二代目皇帝 劉禅りゅうぜん(字・公嗣)

陛下です。

 

さて、今更言うまでもないことではありますが。

「劉禅」という名を聞いてよいイメージを抱く方はまずいないでしょう。

 

 

「人々は、阿斗のようであってはならない」

これは、故・毛沢東が中華国民に向けて発信した言葉と伝わります。

 

「阿斗」とは、劉禅の幼名です。

ようするに上記の言葉とは、毛沢東が彼を「無能・暗愚の代名詞」として引き合いに出したものというわけですね。

 

日本においても同じで、「この劉禅!」とでも言われたら、三国志を知っている人間であれば誰でも一瞬で侮辱・罵倒だと理解できるレベル。

(というか本場中国でも「どうしようもない阿斗」という罵倒語が実際あったりする)

 

現代に至るまで、劉禅という人物は「君主としては無能だった」とバカにされ続ける人物ですし、少なくとも君主としての彼の能力を擁護する意見は決して多くはありません。

ぶっちゃけ私も、劉禅閣下個人の「君主としての能力は欠けていた」思っております。※なので「劉禅実は有能論」には賛同できません。すみませぬ。

 

しかし、一人の人間として見ると彼はかなーりハードで危うい人生を送っていて、それでも最終的には穏やかに天寿を全うした。

そう考えると、君主としての資質はともかく、個人としては賢明で、慎重に身を処して生き残った人物なのではないか?

・・・という視点から、劉禅閣下について語ってみたいなと思いました。

 

そもそも劉禅陛下が評価されるにあたって。

まあそういう立場だったのだからしょうがないし、当然かも知れませぬが、「蜀漢二代目皇帝」という肩書ありきで評価されてしまいがちです。

 

なのでこれまでの彼は「個人としてどんな人物で、どう生きたか」という点ではあまり注目されていないように思います。

それは史書も含めてですので後世の我々には正直どうしようもないですし、意味がないとおっしゃる方も多いでしょうが、

ここは是非その無謀な挑戦をしてみたいと思います。

「皇帝」としての評価ももちろん語る必要はあるわけですが、「一人の人間・劉禅」についても色々考察してみましょう。ぜひ。

正直、個人のバイアスと妄想もたっぷり入っているのでその点ご了承できるという方のみ最後まで読むことをおすすめしますw

では、まずは劉禅陛下の人物や主な業績(?)について軽ーくおさらいをいたしましょう。

 

劉禅の生涯と概略

プロフィール

姓名 劉禅(「阿斗」は幼名)
公嗣
出身 荊州新野?
生没年 207~271年
在位 章武3年4月24日 – 炎興元年11月6日
(223年6月10日 – 263年12月23日)
劉備
甘夫人
后妃 敬哀皇后(父張飛)
張皇后(父張飛)

正史略歴

父は劉備、母は甘夫人。

彼は207年、劉表のはからいで新野に居候していた頃の劉備の子として誕生。よく聞く「阿斗」は幼名。

彼の前半生に関する記述は簡素かつ少ないが、それでも物心付く前からなかなか過酷な人生を送っている。

劉禅が生まれてほどない208年、「荊州のドン」ともいうべき劉表が没し、曹操による南下作戦も開始される。民衆も巻き込んだ逃避行の中、まだ赤子の劉禅も危機に陥るが趙雲の活躍で難を逃れる。

曹操を退けた孫権の後ろ盾として、荊州に居候した劉備のもとで劉禅もようやく腰を落ち着けてスクスクと・・・とはならず。

母の甘氏が没し、その後継母であり孫権の妹として劉備に嫁いだ孫夫人(孫尚香の元ネタ)に拉致されかけ、寸でのところで救出されるなどまたもや危ない目に遭う。

父・劉備が益州の地を奪い、さらに漢中を攻め取って漢中王になると太子になったが、特にそれ以外の目立った記述はない。

劉備の破滅フラグとなった夷陵の戦いにおいては劉備に成都の留守を任された。父が夷陵において敗退すると、益州で反乱が勃発するが、ここでも劉禅は特に何もした形跡はなく諸葛亮らの働きで辛うじてこれを鎮圧した。

223年、失意のうちに没した劉備の跡を継いでわずか17歳で蜀漢帝国2代目皇帝となるが、その後も諸葛亮に全権を委任して本人は特に目立った活躍はなし。

一方、諸葛亮が存命中は良くも悪くも彼に全権を委任し、暗愚と叩かれるほどの失政も特になかった。ただし後宮の人員増員を要請したり、遊興や行幸をしたという記録はバッチリ残っているため、あまり熱心でなかったのは確かなようである。まあそれもある種皇帝の仕事ではあるが

しかし諸葛亮が234年に死去すると蜀漢は衰退の一途をたどり、後継者として期待された蔣琬・費禕も亡くなるといよいよその穴を埋められるだけの人材もいなくなってしてしまう。

姜維の度重なる北伐で国力はどんどん衰え、それを巡る宮廷内の対立や腐敗も生じるが、そこでも劉禅は特に手を打つことはできなかった。

ある意味有名な宦官・黄皓が劉禅に気に入られ、北伐・反北伐派の対立を利用して台頭していくのもこの頃からである。

そうこうしているうちに敵国・魏は司馬一族に実権を奪われ、263年には司馬昭の主導のもと鄧艾・鍾会らによる蜀侵攻が開始される。

しかし、黄皓による指し金によってここでも劉禅は姜維に援軍を送らないなど無為無策のまま過ごし、結局蜀漢は(姜維の想定の数年くらいは早く)滅亡する。

この際、劉禅は特に慌てた様子もなく自らを縛り上げて敵将・鄧艾に投降。助命される。

264年には姜維が先の侵攻軍の将の一人でもあった鍾会、および劉禅の子を抱き込んで蜀復興を賭けて反乱を起こすなどのトラブルもあったが、ほとんど警戒されることもなく余生を過ごし、271年に65歳で天寿を全うした。

陳寿は「白い糸は染められるがままに何色にも染まる(簡単に言えば、周りに流されるまま)」と評している。

 

『三国志演義』の劉禅

最早言うまでもないので割愛するが、どうしようもない暗君というキャラクターが強調されている。

史実では特に足を引っ張ってもいない北伐でも、諸葛亮の謀反を疑って邪魔したりと、ほんとにどうしようもない感じになってしまっている。

さらに劉禅には落ち度がない臣下の逸話(劉琰処刑等)ですらその暗愚ぶりと分別のなさを強調するために誇張・改変されるなど、いわゆる「演義被害者組」の中でも相当不憫な扱いをされているかも知れない・・・。

 

劉禅と他の人物との関係

劉備

父。劉禅が生まれた頃はほぼ居候の身だったが、その後諸葛亮らの活躍で蜀の地に割拠し、皇帝にまで上り詰めてしまう。

関羽が死ぬと私情爆発で呉へ侵攻した挙句大敗し、諸葛亮の計画の半分を占めていた荊州の支配権を完全に喪失。

「ほぼクリア不可能状態でセーブされたクソゲー」のような状態の蜀を劉禅に放り出し、失意のままこの世を去った。

ある意味、劉禅の人生をハードモードにし続けたとんでもない親父。

諸葛亮

蜀漢丞相。特に何もしない劉禅に代わって全権を委任され、劉備の無茶でボロボロになった国を立て直しつつ果敢に北伐に挑むも234年に病没。

彼もある意味親父、そして劉禅を修羅の道へ引き込んだ張本人その2と言えなくもない。

とはいえ劉禅はそれなりに彼を信任して尊敬していたらしく、死後まもなく彼を侮辱したある男に激怒して処刑までしている。

蔣琬・費禕

諸葛亮から後継者として指名された二人。

どちらも優れた才覚を持っていたが、蔣琬は病に倒れて才能を発揮できないまま没し、費禕も魏を撃退するなど幸先の良い戦果を挙げるが正月の宴席で刺客によって落命。

諸葛亮もさすがに「この二人の後」までは指名していなかったのでいよいよ人材がいなくなってしまった。

姜維

諸葛亮やその後任者が全滅すると、お蔵入りになっていた北伐を再度推進。

将としての才能は決して低くなかったが政治力はからっきしで、同じく北伐賛成派の政治家・陳祗らの後ろ盾で辛うじて立場を維持している有様だった。

結果的に国力を浪費した挙句、反北伐派の諸葛瞻らと激しく対立。

この政争の過程で宦官・黄皓が諸葛瞻に接近して権力を強化する機会を与えてしまうなど、北伐の成果以上に害をもたらしてしまった。

魏による蜀侵攻でも鍾会を釘付けにするなど奮戦するが、別動隊として成都めがけて一直線に強行した鄧艾を止める余力はもはやなく、蜀漢滅亡を許してしまう。

それでも諦めない彼はかつての敵である鍾会の野心を利用して蜀漢再興を企てるも、そもそも組む相手が間違っていたので失敗して討ち取られた。

劉璿

劉禅の子で皇太子だった。

姜維の反乱で父を差し置いて担ぎ出され、巻き込まれた挙句に呆気なく討たれてしまった。泣いていい。

劉諶

劉禅の五男。

魏が迫ってくると父の前で徹底抗戦を主張したが受け入れられず、それを恥じて自害した。

各種創作では「暗愚な劉禅vs出来た息子」という対比でしばしば良いように使われてしまう人物。

黄皓

みんな大好きザ・悪宦官。

その業績は言うまでもないが、そもそも彼が台頭してしまった背景は諸葛亮死後の人材枯渇や北伐の是非を巡る宮廷内の意見対立がある。

黄皓は反北伐派の諸葛瞻らに協力する形で立場を安定化させているし、もちろんそれは諸葛瞻らにも責任があるので「すべてこのネコミミ野郎宦官のせいで」とは言い切れない。

なお、蜀を征服した鄧艾は彼のような佞臣などブチ殺す気満々であったようだが、黄皓は鄧艾の側近を既に買収しており、ちゃっかり生存したようである。

しかし羅漢中はじめ後世の人間たちはこの結末に納得いかなかったようで、演義では同じ経緯で助かったように見せかけつつ、同じく黄皓を不快に思っていた司馬昭によって15禁レベルの惨い処刑をされた。

ネコミミ宦官と言われるのはKOEI三國志シリーズのグラフィック、および昔の動画シリーズの影響による

郤正

劉禅の忠臣らしい忠臣。

司馬昭に招かれた宴席でのほほんとしている劉禅に恥をかかせまいとあれこれ奔走する。が、やっぱり恥をかいた。

劉禅は郤正の補佐によって落ち度なく振る舞うことができた・・・とそれなりに感謝はしていたようで「もう少しお前を早く評価しておけば」と語ったらしい。

司馬昭

蜀滅亡時、魏の最高権力者に上り詰めていた男で、かの司馬懿の息子。

宴席に招いた劉禅の前で蜀の音楽を演奏するという粋な(意地悪な)パフォーマンスをするが、泣き崩れる蜀の旧臣を尻目に劉禅は「ここの生活が楽しいので別に蜀に思い入れはない」と平然としていた。

それを見た司馬昭は「コイツが主では諸葛亮ですら国を保てなかっただろう。まして姜維ごときではな」と、呆れた・・・という一幕が有名。

ただし、この宴席自体が劉禅の「野心」を探るための司馬昭の盛大なカマ掛けであった説、おまけに姜維が264年に蜀の旧臣や劉禅の子を抱き込んで実際に反乱未遂事件を起こしていたことを考えると、この逸話も違った見方ができる・・・はず。

敬哀皇后・張皇后

劉禅の皇后。敬哀皇后は早くに亡くなったのでその後に立てられたのが張皇后。

なおこの二人、姉妹でありあの張飛の娘である。

特にそれ以外に書くことはないが状況的には面白いのでなんとなく紹介した。

 

君主としての劉禅

さて、ここから劉禅陛下の人物像についてまとめていきたいのですが、冒頭で申しましたように今回は

「一国の君主としての劉禅」と「個人としての劉禅」の評価の2パートに分けてみたいと思います。

まずは「君主としての劉禅」についての私なりの評価なのですが・・・

「暴虐やド暗愚というほどではないが、有能か無能かの2択で言えば無能」というのが個人的な評価です。

ただ、これに関しては様々な異論・見解があることは理解しております。

一応・・・

  • 即位から滅亡まで40年も在位し続け、弱小の蜀の一勢力にしてはかなり長持ちした
  • 在位中、むやみに臣下を処刑したり口出ししたりはせず、諸葛亮らは存分にその才覚を生かすことができた

 

など、彼の治世は決して悪いことばかりではありませんでした。

しかしこれらは「劉禅陛下個人の能力と才覚によるもの」ではなく、当時の他国の情勢や蜀の立地、劉備時代の人材に恵まれていたことなどが大きな要因なのではないかと考えておりまして。

それだけで劉禅陛下の「皇帝としての能力」を評価する材料には、必ずしもなりえないことに注意が必要です。

 

君主としての劉禅の本質は「放任主義」

劉禅閣下の治世を拝見して感じますのは、ほぼ40年間一貫して

「良くも悪くも放任主義」

であることです。

分かりやすく言えば「中華版・そうせい侯」と申しますか。(そうせい侯とは幕末の長州藩主・毛利敬親のこと)

劉禅陛下の在位中、彼は驚くほど主体的・能動的に命令を出した記録が少ないのです。

特に、国の方針や政策についての劉禅閣下自身の意見は「皆無」と言ってよいほど。

せいぜい、「劉禅が(史書では主に“後主が”)」という主語が付く記録と言えば、問題を起こした臣下を処刑したり処罰する際くらいでしょうか。(それも約一名を除けば本人の怒りや意志ではないものばかり)

こういったいわゆる「丸投げ」的な姿勢は、君主としては決して悪いことばかりではありません。むしろ部下が存分に実力を発揮できることもあります。

 

この「丸投げ」で上手くいったわかりやすい例が先述の「そうせいマン」こと毛利敬親公ですし、前漢高祖・劉邦もどちらかと言えばこのタイプに当てはまるでしょうか。

先帝劉備も、呉の孫権も、決して自分では何もしないわけではないのですが、どちらかと言えば(世間的なイメージも含め)このタイプに当てはまるかも知れません。

孫子は「君主が軍事もわからぬくせに現場の将を飛び越して勝手に命令し、指揮系統を混乱させることは危険である」と、説いています。

そうなるくらいなら、任せるべきところは現場のプロに任せることもトップには必要な素質の一つなのです。

 

「放任主義」がプラスに働いた諸葛亮存命時、マイナスに働いた諸葛亮死後

・・・この面だけ見れば確かに劉禅閣下は「賢い」と見えるかもしれません。

 

しかし劉禅閣下の場合、

「君主として、トップとしてシメるべきところも完全放置」

というかなーーーり致命的な問題もありまして。

 

完全放置でも、諸葛亮のように政治も軍事も国家運営も全部面倒を見ることができてしまう万能選手がいればそれも構いません。

しかし、諸葛亮が死んだ後は彼の本当の意味での「後継者」として・・・また基本放任主義の劉禅に代わって「国の意志をまとめる人材」がいなくなってしまいます。

のちに北伐派・反北伐派に分かれて内部抗争が発生したのですが、そこでも劉禅閣下は

  • 「北伐に専念するか」
  • 「内治重視に方針転換するか」

といった意思表明すらまともにしていた形跡がありません。

 

このことで蜀臣はそれぞれ国策を巡って争うことになりますが、その過程で台頭した男こそが宦官・黄皓である・・・という経緯についてはまた彼の個別記事で話した方が良いでしょう。

 

ともかく、劉禅陛下の治世を振り返ると、

  • 良かった時期・・・諸葛亮に全権を丸投げし、口出しもしなかった
  • 悪かった時期・・・臣下が暴走しても丸投げし、口出ししなかった

という感じで、要するに劉禅陛下の本質は「放任主義、成るがまま」であり、彼のこういった方針は治世中ある意味で一貫しているのです。

 

「君主として、諸葛亮に任せるのが上策だから口出ししなかった」という陛下自身の賢明な判断があったならともかく、放任したらダメな時期もずっと放任していたわけで。

よって、彼に「ちゃんと考えがあって放任していた」という線はこの時点で限りなく薄くなります。

単に「自分の意志がなかった・表明する気がなかったから放任主義になっただけ」としか解釈のしようがなくなってしまいます。残念ながら。

 

総括すると。

 

君主としての劉禅陛下はまさに陳寿が評した通り「何色にも染まる糸」であり、部下に口出しはしないが必要な制御もしない。ひたすら成るがまま。

それが諸葛亮のような「忠誠心があって、かつ軍事政治なんでも、しかも最高責任者として回せる人間」がいる場合にはプラスに働きました。

しかし、諸葛亮がいなくなると「制御もしない、放置する」という姿勢が完全にマイナスに働き、蜀の腐敗を招いたわけです。

 

確かに、結果的に劉禅陛下即位後の「蜀漢」という国は40年間持ちこたえたわけですが、それはさすがに劉禅陛下個人の力量によるもの!・・・とは到底言えないでしょう。

 

なお、劉禅陛下が主体的に行った事績はほとんどないわけですが、たとえば先に述べたように後宮の人員増加を行い、大赦を乱発したために政治がたるみきったという記述もあります。

・・・やはりそういった面や「要所で指導力を発揮できなかった」という意味でも、残念ながら劉禅閣下は「君主としては完全に落第」というほかないでしょう。

むろんどこぞの呉帝のように暴虐を働いたとか、臣下と権力闘争をして国を混乱させた挙句自滅した・・・というような話がないぶん「マシ」ではあります。

しかし「マシ」なだけであって、名君か暗君かの二者択一で言えば「暗君」に分類されるタイプとしか言うほかないのではないでしょうか・・・。

 

蜀に使者として訪れた呉の薛珝も、呆れて本国に報告しています。

「主は暗愚で過ちに気付かず、臣下は我が身が可愛さに一向に罪を被らない様に努めるイエスマンばかり。朝政でもまともな意見を聞く事がないしやべぇよこの国」

・・・と、このようなありさまでした。

 

個人としての劉禅陛下の人柄や思想がいまいち分かりにくいのもまた厄介。

というかもともと何も考えていなかったのでは・・?とすら思えます。

劉禅自身の(プライベートでの)本音や台詞が出てくるのは有名どころだとせいぜい、蜀滅亡後の司馬昭との宴会事件くらいでしょうか。

そういった「不明点」が多いのまた劉禅陛下の不思議さであり、様々な解釈を生み出した要因でもあるでしょう。

 

一人の人間としての「劉禅」

さて、君主としては「落第」な劉禅陛下なのですが・・・

個人として見ると、彼の人生は生まれた頃から希望どころか絶望に満ち溢れており、一人の人間としては同情するしかないほど過酷な前半生を送っていました。

 

パパは中原の覇権争いに敗れて逃走中のS級戦犯

劉禅の人生を(おそらく)本人が望まぬ方向へ無理やり引き込んだのはまず第一に父・劉備でしょう。

当時の劉備様の立場はぶっちゃけ一言で申せば

「中原の覇権争いに敗れ、曹操の敵対勢力である荊州の劉表に居候している指名手配犯」

・・・のような状況でした。

 

そもそも史実の劉備は、中原の覇権争いを制した曹操からはバチバチに敵視されているどころか、むしろ劉備自身が献帝を保護する曹操に対して堂々と喧嘩を売るような行為を働きまくっていたので、もはや和解も不可能な状況。

※孫権への手紙でもわざわざ「劉備の野郎だけは絶対許せないけど(意訳)」と断っているほど。

 

既に圧倒的勢力を築き上げていた曹操がもし順当に天下を統一すれば、中華に劉備とその一族の居場所はありません。

捕まりでもすれば「三族滅」でも全く文句は言えない状況です。曹操なら許そうとしかねないけどたぶん程昱あたりが許さないと思う

 

参考までに劉備が曹操に行った仕打ちをざっくり挙げますと、

①父の敵・陶謙を討とうとする曹操をわざわざ邪魔したうえに、その陶謙が死ぬとちゃっかり徐州の主になった

②呂布との戦いではその遺恨を水に流して援助してもらい、曹操は周囲から上がっていた「劉備を殺せ」という声も無視してまで最大限厚遇してくれたにもかかわらず、当の劉備は裏で曹操暗殺計画に乗っかって暗躍

③暗殺計画に乗る一方、曹操の兵を騙し取る形で徐州を占拠して再度独立。袁紹と対峙してクソ忙しい曹操に最大限の迷惑をかける

④必死の曹操により徐州から追い出されるが、今度は袁紹に身を寄せて南進を唆し、官渡決戦の折には賊と組んで曹操領を荒らし回り、絶賛苦戦中の曹操のHPとメンタルを着実に削る

⑤袁紹敗北後、曹操軍の曹仁に攻められたがまんまと劉表のもとへ逃亡し、荊州進出を狙う曹操軍をたびたび撃退するなどまた邪魔する

 

・・・このように、劉備は曹操に恨みでもあるのかというくらいことごとく敵対行動を取っています。(劉備は劉備で言い分はあるでしょうがいうほどない気もする

さすがの人材収集フェチ・曹操もここまでされては劉備を生かしておく理由は全くないという状況。

 

しかも、曹操は漢帝国の現皇帝である劉協を擁立しています。

そこに敢えて逆らい続け、危険が迫れば真っ先に献帝を見捨てて逃亡し、時には呂布にすら勝るような裏切りを働いていた劉備が「皇帝陛下をないがしろにする曹操を討つため・・・」などと喧伝しても、少なくとも曹操サイドは誰も納得しないでしょう。

いわば、S級国家反逆罪+曹操の個人的恨みを盛大に買って逃走中の男を「父」に持って生まれたのが劉禅だったわけで。

「捕まり次第、三族皆殺しはほぼ確定」とかいう死亡ルートが生まれた時から用意されているような劉禅陛下の生い立ちには同情を禁じ得ません。

 

さらに、生まれてからも幼き劉禅(阿斗)の苦難は続きます。

長坂坡では父は阿斗も妻(阿斗の母)も放り出して我先にと遁走し、趙雲の助けがなければ曹操軍に囚われるか、最悪命を落とすところでした。

暇孔明
暇孔明

ただ、高祖・劉邦も家族を捨てて逃走した(それを夏侯嬰が延々拾い上げた)逸話があるように、決して珍しいことではありませんでした。現代的な倫理観とは若干違う点に注意。

 

さらに、曹操が赤壁で敗れて北へ撤退した後も、母・甘氏が早くに病死。早くも片親となります。

おまけに継母として劉備に嫁いだ孫権の妹・孫夫人でしたが、継母がろくでもない人間なのは童話のお約束。

後世、物語などではヒロイン枠として色々妄想を掻き立てる孫夫人ですが、史実では割と無茶苦茶な人物で、

孫権の妹であることをかさにやりたい放題で、曹操を恐れぬ劉備からも恐れられていました。

 

彼女の奇行ぶりは劉備のみならず、あの諸葛亮をして

「北に曹操、
 南に孫権、
 更に内にあっては孫夫人の脅威
(=曹操・孫権と並ぶ大敵)

とまで言わしめたほどでした。

 

そしてそんな彼女の奇行の「最大の被害者」こそが、幼い阿斗だったのです。

 

事が起こったのは、劉備が益州を掠め取りに出陣中の頃・・・

 

孫権は彼女を連れ帰るために船を寄こします。

孫夫人と劉備の政略結婚は孫権にとってはいまいち利が薄く(劉備側からも迷惑であったので)解消を図ったのでしょう。

 

しかしそこで孫夫人は、劉備の大事な後継ぎである阿斗を無断で呉に連れ帰ろうとしました。

 

辛くも、彼女を曹操並みに警戒していた諸葛亮の素早い対応、そしてその命を受けた趙雲(と張飛)によって阻止されましたが、まあ要するに誘拐未遂事件に遭ってしまったわけですね。

 

当時212年、劉禅はまだ数えで6歳。

今でいう幼稚園児くらいの年齢で継母に誘拐されそうになった阿斗、というとなかなかハードではないでしょうか・・・。

 

しかもこの時父・劉備は益州へ出陣中だったため致し方ないことではありますが、大事な時にまたもや父は阿斗を助けに来てくれなかったのです。

 

その後、成長した阿斗・劉禅の全く手の及ばないところで、彼の周囲を取り巻く状況は悪化の一途を辿ります。

父が益州を奪い取って漢中まで進出したはよかったのですが、その後は着実に情勢が悪化

 

219年、父劉備の義兄弟・関羽孫権を煽りまくった挙句曹操領へ侵攻した隙を突かれて大事な根拠地である荊州を喪失。関羽自身も敗死。

諸葛亮の計画した「天下三分の計」の半分くらいの重要度を占めていた荊州を失ったことで、早くも計画は半分破綻したも同然となります。

 

さらに悪いことに、関羽の死によって父・劉備が暴走。

群臣が止めるのも聞かずに、劉備は自ら兵を率いて荊州へ侵攻し、孫権への報復を企てます。

さらに、同じく関羽の死にいきり立っていた義弟・張飛自身のパワハラが原因で部下により暗殺されてしまいます。

これによりますます冷静さを失った劉備は、孫権軍の陸遜の策にはまって夷陵の戦いで大敗。

「白眉」こと馬良をはじめ、有能な臣下も多く失ってしまいました。

 

・・・この一件で一番被害を被ったのは孫権でも誰でもなく、劉禅(と諸葛亮)です。

ただでさえ荊州を失ってピンチだった劉備軍・・・改め蜀漢は、この敗北によってさらに大打撃を受けました。

 

そんな危機的状況にもかかわらず、当の劉備は成都へ帰還して劉禅を思いやるどころか、白帝城(永安)に引きこもって諸葛亮に政務を丸投げ。

挙句、自分以外の息子達(劉禅は太子として首都を守る立場だったとはいえ)と諸葛亮だけを呼んだうえで

「俺の息子が補佐するに足りないゴミだったらお前が皇帝になっていいよ」

などと言い残してポックリ逝ってしまいました。

 

(皇帝としてのポジショントークも必要とはいえ)まったく、酷い父親もあったものではないでしょうか。

 

私が劉禅陛下だったら

「テメェのやらかし棚に上げて何言ってんだ糞親父」

と怒りますけどね。普通に。

 

・・・そんなこんなで、若くして蜀漢皇帝になった劉禅「陛下」の正式な誕生となったのが223年、弱冠17歳のことでした。

 

勝手に悪化する状況・・・そして「何もできないまま」劉禅は皇帝になっていた

はい、ここまでのお話で分かる通り、皇帝即位まで劉禅陛下は幼く、何かしようにもほぼ無力で何もできないうちに周囲に振り回されるばかりでした。

あげく、劉備が死に際に多数の人材と兵力をボロボロにすり減らしてしまったほぼ詰み状態の「蜀漢帝国」というアウトローな国を引き継がされてしまったのです。

 

「アウトロー」と言いましたがそもそも、この蜀漢という国は成り立ちからして相当アレな国です。

私なら絶対住みたくないし、まして絶対跡なんて継ぎたくないです。

 

・・・簡単に言えば蜀漢とは、

後漢皇帝がいる中央政権に(協力する道もあったのに)ひたすら刃向かって敗走した皇族崩れが、後漢によって正式に任命された州牧を追い出した挙句、「自分が正当」などと吹聴して中央からの落ちこぼれ士大夫・荒くれ共を糾合して作ったヤバい国

であり、加えて劉禅陛下が即位した(させられた)当時は、

私怨バリバリで旧宗主国(孫権)に襲い掛かった挙句、返り討ちに遭ってノックダウン寸前、おまけに北には全力出せば国力的にいつでも攻めてこれる超大国・魏が控えている

・・・という、まさにVERYHARDモードでした。

※さらにこの時孫権と曹丕の間に和睦(名目上は孫権の恭順。すぐ孫権の裏切りで破綻するけど・・・)が成立しており蜀は完全に孤立中。

 

ちなみに少し話が遡りますが、蜀が「大義名分」の一つとして頼りにしていた後漢帝・劉協はとっくに曹丕に屈し、既に「禅譲」という形で平和裏に退位済み。

もはや漢室を救うという錦の御旗を失い、大義名分もない。

 

しゃーないから劉備が後漢皇帝の正式な後継者を名乗って無理やり大義名分を作った。

むろん勝てば官軍という言葉もある、ただし勝てる確率は兵力的にも大義名分的にも0.1%未満。

負ければ賊軍扱いで即処断確定。負けて捕まりでもすれば高確率でロクな死に方をしない。

 

このように、劉禅陛下はマジで何もしてない(年齢的にも立場的にもできない)のに、勝手に父をはじめとする周囲の人間が暴走して状況を悪化させていき、

しまいにはその渦中、いや「禍」中の文字通りど真ん中に、本人の意志では全くどうしようもないまま座らされたわけです。

 

普通に不憫すぎる

・・・というのが、私が劉禅陛下の前半生を振り返ってみて第一に思ったことです。

 

あるいは、劉禅陛下がのちに皇帝として見せた

「丸投げ、成るがまま」

という行動(しない)原理を形成したのは、これら幼少期の体験とその中で感じたであろう「無力感」によるところが大きいのではないか?

 

無力なまま、自分の意志すらろくに表現できない立場のまま「最悪の事態」へ放り込まれてしまった彼は、ある意味「虚無主義・ニヒリズム」的な何かに陥っていたのではないか?

・・・などという説を唱えてみます。

 

40年の虚無、そして蜀滅亡

ここで夭折するか、暴走して暴君化でもしていれば劉禅陛下は「並の人物」で終わっていたでしょう。

 

しかし劉禅陛下は、その後なんと約40年もの間、虚無と欺瞞で装飾されたような「蜀漢皇帝」の座に居続けます。

この40年という皇帝在位期間は三国時代ではブッチギリの最長

中華史全体を通しても普通に上位に食い込むほどではないでしょうか?

 

同時代の「君主歴」でいえば19歳から頑張っていた孫権の52年には負けますが、その孫権も「皇帝」だった期間は20年ちょっとです。

 

冒頭で申しましたように、劉禅陛下個人は君主としては特に何もしておりませんし、彼が皇帝として「有能」だったからそれだけ長く皇位を保ち続けられた・・・とも決して思いません。

しかし、いつ崩壊して滅ぼされてもおかしくないような国の皇帝として40年もの間、発狂することもなく虚無に耐え続けたそのメンタルはある意味非凡といえるものなのではないでしょうか。

 

ちなみに同時代、「自らの置かれた状況に絶望して自暴自棄的な行動を取った」皇帝は複数存在します。

 

まず一人は敵国の魏帝・曹髦

彼は劉禅と同時代の6年間、権力を握っていた司馬一族の傀儡として皇帝として祭り上げられました。

しかし彼は「司馬昭の操り人形としての皇帝」という状況に耐えられず、無謀にもわずかな手勢で権臣・司馬昭に対する「討伐」を決行。

しかし強大な権力を持つ司馬昭にかなうはずもなく、最後は怨敵・司馬昭の顔すら見つけられないまま一兵卒に刺され、無残な最期を遂げました。

 

もう一人は最後の呉帝・孫晧です。

彼は、いわゆる「二宮事件」にほぼ一方的な被害者として巻き込まれ失脚し、のちに孫峻一派による政争のうちに殺害された孫和の子です。

ですが、内乱に次ぐ内乱で皇位継承候補となる一族が多く死んだこと、さらに前皇帝・孫休の早世によって皇位継承のお鉢が回ってきたのでした。

即位当初は精力的に皇帝としての活動を見せ、善政を施していた孫晧でしたが、既に蜀は滅んで大陸の大半は司馬氏が興した西晋帝国が支配する状況。

そんな状況の中絶望したのか、孫晧は突如人が変わったように暴君と化します。

呉が滅びた後は、まるで何か憑き物が落ちたかのように「即位当初の賢明な孫晧」に戻りましたが、彼が働いた理不尽な暴虐の数々は今でも後世から非難されています。

※二宮の変ではすっかり耄碌して迷走を繰り返し、多くの有能な臣下を(時には自らの手で)死なせてしまった孫権も「狂った」一人かも知れません。

 

しかし、一方の劉禅陛下はというと。

「40年間、良くも悪くもいつも通り」

客観的に見て、劉禅陛下と蜀の置かれた状況は全く安穏としていられるものではありません。

先に述べた国の成り立ちもそうですが、そもそも「皇帝」を名乗れるほどの国力もない。

険阻な地形に囲まれているという条件はあるものの既に劉備時代を支えた名将・名臣の多くはこの世を去っている。

諸葛亮は「やらねばいずれやられる」状況の中、焦るように北伐を繰り返しましたが結局それも成功せず、最終的には五丈原で陣没してしまいます。

 

諸葛亮が指名した費禕・蔣琬らも相次いで亡くなり、残ったのは軍事能力全振りな姜維。

大遠征を支えるだけの政治力も併せ持っていた諸葛亮と同じことを姜維がやっても、当然上手くいくはずもなし。

かえって宮廷内では北伐を巡る政治対立が激化し、諸葛亮の子である諸葛瞻でさえ「反北伐」という目的のために宦官・黄皓と結託して姜維らと対立し、政治腐敗を招いてしまう有様。

このおかげで蜀はさらに衰退していきます。

 

そんな危機的状況の中、劉禅陛下だけは何があろうとも「放任主義」のマイペースを貫いていました。

確かに、国力が低いとはいえ攻められ辛い蜀の地で何十年も過ごしていれば危機意識が麻痺したとしても不思議はありません。

劉禅陛下にもそういう側面がなかったとは言えないでしょう。

 

・・・が、客観的に見て頼りにしていた諸葛亮が亡くなり、北伐はことごとくうまく行かず、団結力を失い政争を繰り返している有様では「もう本格的に国としてヤバい」ということは劉禅はじめ多くの人間が気付いていたはずで。

それでも狂わなかった劉禅陛下は、ある意味人知を超えたメンタルの持ち主だったのではないでしょうか・・・

 

静かに蜀の歴史に幕を引く

先に述べた通り・・・263年、魏の鄧艾らの侵攻で蜀は滅亡します。

鄧艾の奇襲により成都まで魏軍が迫った際、劉禅陛下は呉への亡命も考えたものの、最終的に使者を送って魏に投降することを決意。

その際劉禅陛下は自らの身を縛りあげ、棺を担いだ姿で鄧艾のもとを訪れたと伝わります。

鄧艾はその潔い態度に感じるところがあったのか、劉禅陛下らに危害を加えず助命。

 

鄧艾による処分は、怨敵・蜀の皇帝とその群臣に対するものとしては実に寛大なもので、魏軍による旧蜀領での略奪や殺生も禁止。(この時の鄧艾の独断行動は、のちのち彼の身を滅ぼすことにはなるのですが・・・)

一方、劉禅陛下も自身の五男・劉諶ら徹底抗戦派を抑え、抵抗を続ける姜維らにも降伏を命じるなど、その降伏の手続きは(それまでのグダグダっぷりからは考えられないほど)実に落ち着いたものでした。

まるで、ずっと前からこうなる運命を受け入れていたように・・・

 

蜀の成立過程とこれまでの死闘を考えれば、「三族皆殺し」でもおかしくなかった蜀帝劉禅とその一族。

しかし終わってみれば実にあっさり、静かに、劉禅陛下は40年ぶりに「皇帝」という重圧から解き放たれ「一人の人間・劉禅」に戻ることができたのでした。

この時劉禅、数えで既に57歳。

 

酒宴事件で笑いものになるが、安楽公として平穏な余生

その後にあった出来事が、ある意味劉禅・元陛下の人柄を示すとして有名になってしまった「酒宴事件」です。

『漢晋春秋』によると、劉禅はあるとき司馬昭によって酒宴に招かれます(蜀が滅んでから司馬昭が死ぬまでの263年から~265年のどこか。)

 

そこで司馬昭は劉禅への「もてなし」として、蜀の音楽を演奏させましたが、旧蜀臣たちが皆感極まって泣き出すのを尻目に、劉禅はいつも通りマイペース。

愛想よく笑ってさえいた言われます。

 

司馬昭が「蜀を思い出すことはないのか」と聞いても「いいえ、ここでの生活は楽しく、蜀に未練はありません」とケロリと言ってのける。

これには司馬昭ら魏の面々も、蜀の面々も呆れかえります。

 

旧蜀臣の郤正は、「これではあんまりだ」として「今度同じ質問をされたら『先祖の墳墓も隴・蜀にありますので、西の国を思って悲しまぬ日とてありませぬ』とお答えください」と進言。

はたして劉禅が同じ質問をされるとそう答えたため、司馬昭は「郤正殿の言葉通りなことよ」とからかい、劉禅は「その通りです」と答え、その場にいた者達の失笑を買いました。

 

ここでも「なるがまま」スタイルを一貫している劉禅はやはりないも考えていなかった・・・と取られても仕方がないでしょう。

のちに司馬昭は、

「この有様では諸葛亮が生きていたとしても蜀は持たなかっただろう、まして姜維などでは・・・」

と呆れかえり、司馬昭の懐刀である賈充は

「だからこそあなたは蜀を制圧できたのですよw」

・・・と嘲笑。

 

こうして「暗君」劉禅の名は後世に残ることになりました・・・

彼は後にあった「蜀のちょっとしたいざこざ」に巻き込まれることもなく洛陽へ護送され、のちの父の故郷でもある幽州の地で「安楽公」として平穏な余生を過ごしたと伝わります。

享年・65歳というまずまずの年齢でした。

 

劉禅最後の危機!?姜維・鍾会反逆事件

さて、劉禅の酒宴での振舞いというのは、長らく「暗愚な劉禅の代名詞」ともいえる逸話として長く伝わってきました・・・。

 

・・・

・・・・・とその前に。

 

私はここで重大な事件を一つスルーしてまいりました。

 

それがさっき言った「蜀でのちょっとしたいざこざ」

すなわち264年姜維・鍾会による反乱事件です。

 

簡単に申しますとこの事件というのは

一度は劉禅の命令で魏に降った姜維が、劉禅の子・劉璿を担ぎ上げ、さらにかつての敵将である鍾会の野心を煽って結託、益州で反乱を起こしたというもの。

当時、劉禅はまだ洛陽に護送されていないはずで(劉禅への密書がちゃんと届いたことや『漢晋春秋』の記述からしても)、おそらく「例の酒宴事件」もこの反乱後のことです。

 

この乱自体は、鍾会に反発した胡烈をはじめとする諸将の機転によって呆気なく鎮圧されたので大事には至りませんでした。

しかし劉禅にとっては迷惑なことに、姜維が劉禅の皇太子だった劉璿を担ぎ上げていたことが問題でした。

おまけに姜維は、劉禅に対しても「蜀再興しますぜ!」という手紙を送っています。

 

普通に考えて、これは劉禅にとっては非常に危険な状況です。

「この生姜野郎はわしを殺す気か!?」

と劉禅(元陛下)が思っても不思議はありません。

 

「旧蜀臣が、旧皇帝の子を担ぎ上げて反逆した」

・・・それはすなわち旧皇帝である劉禅の関与を疑われても仕方ありません、というか当然です。

 

むしろ魏(司馬昭)にしてみれば、劉禅が本当に関与していたかどうかなど関係ない。

ここで劉禅を処刑して「後の憂い」を絶つこともできる。

この反乱はまさに、格好の口実なわけです。

 

そんな状況の直後に起こったのが例の「酒宴事件」だと考えると・・・

酒宴で失笑を買った劉禅の行動に対しても、また別の見方が出てくるのではないでしょうか・・・?

 

劉禅の返しは「野心がないことを示した」賢明な行動だった説

さて、ここまでの時系列を簡単にまとめますと・・・

  • 263年:蜀滅亡。
  • 264年:姜維、劉璿を担ぎ上げて鍾会らと共に反逆。
    劉禅とも連絡を取っている。
    おそらく劉禅はまだ蜀に残って処分を待っていた状態)
  • ~265年:劉禅、洛陽に護送。
    司馬昭と酒宴で例のやり取りをする

 

つまり何が申したいかといいますと。

司馬昭がわざわざ「劉禅や旧蜀臣を集め」「わざわざ蜀の音楽を流して彼らのリアクションを見た」というのは、司馬昭によるカマかけだったのではないか。

 

!!!以下は完全な妄想と憶測です。!!!
重ねて、苦手な方は閲覧しないことをお勧めします。・・・というわけで続けます。

 

本来、姜維が劉禅と連絡を取っていた(それが記録として伝わっているくらいなら、当時の司馬昭にも筒抜けだったはず)時点で、司馬昭は劉禅を殺すこともできました。

 

というか、劉禅本人は怖くなくてもその名前を使って、誰かがまた姜維のように反乱を起こそうとする可能性は十分に予想できます。

なので、司馬昭にとっては劉禅を生かすのはかなりリスクのあることであり、本来であれば始末するに越したことはありません。

が、司馬昭サイドからしても(鄧艾の独断とはいえ)一度助命した人間を確証もないのに問答無用で殺すのは気まずい。

 

暇孔明
暇孔明

さらに言えば当時の司馬昭は主君である魏帝・曹髦を殺してしまった直後であり、一部魏臣から「お前が死んで詫びろ(意訳)」とすら言われるほど悪評を被っていました。そういう要素も司馬昭を多少は躊躇わせていた可能性も・・・

 

さらに姜維が反乱を起こした当時はまだ戦後処理の真っ最中で、ハイエナを狙って侵攻してきた呉への対処もありましたし、蜀攻略の立役者となった鄧艾が粛清される事件も発生。

鍾会が野心を起こした(というか鄧艾に関してはこいつがハメたとも言われる)のもそんな状況下のことで、旧蜀領の戦後処理は混乱が続いていました。

 

そんな中劉禅を殺したりすれば、せっかく大人しくなっていた旧蜀臣の神経を逆撫でするようなものです。

彼らの独立や反乱も招きかねない・・・

 

そこで司馬昭は、状況が落ち着いてから劉禅や蜀臣を逃げられないよう一か所に集めたうえで「ボロ」を出させるための策を考えた。

※宴会を断ったらそれもまた「何か企んでる」とイチャモンをつける口実に出来る。

 

その一環として企画されたのが「自分が滅ぼした国の元皇帝や部下に祖国の音楽を聴かせる」という手の込んだもてなし、もといメンタル攻撃だったのではないでしょうか。

 

もしその宴席で、劉禅が劉備のように「髀肉の嘆」でもポロっとこぼそうものなら思うつぼ。

「ん?お前やっぱ実は野心マンマンやんけ?ほなら死刑や」

とばかり、董卓式二次会みなごろしへの格好の口実ができるわけです。

 

「蜀に未練はありません!」というのは一見間抜けで、空気が読めない発言かも知れません。

しかしあの発言は「明らかにカマを掛けに来ている司馬昭に対し、保身のために全く野心も未練もないことを示した」ものだと捉えることもできるわけで。

 

そうなると、むしろ劉禅は

  • 「空気を読んで」
  • 「的確に司馬昭の警戒心を解き」
  • 「自身だけでなく他の蜀臣の命も守った」

という解釈もできるのです。

 

また、郤正がこっそり劉禅に勧めたはずの台詞が、司馬昭に速攻で「郤正の言った通り」とバレていることもまた別の解釈ができます。

 

普通に考えれば「いきなり先ほどと逆を言ってるのだから、誰かが入れ知恵したんだな」と司馬昭に察知された・・・といったところでしょう。

しかし一方で、劉禅とその周囲の会話は魏の人々によって監視されており、筒抜けだったからこそ入れ知恵した人物や言葉までバレていたとも考えられるわけで。

 

そこで劉禅は、監視されていることも承知の上で郤正の言葉をそのまんま発し「自分では何も考えてない完全な暗愚」を演じて見せた。

 

・・・そういう考え方もできるのではないでしょーか?

 

これまで君主としてはダメダメだったにもかかわらず、

滅亡時はやけに潔い態度で助命を勝ち取り、

司馬昭に反乱軍への内通を疑われて処刑されてもおかしくない状況すら切り抜けた。

 

なお、劉禅は郤正の計らいで後々恥をかくことなく振舞えたことを評価して「もう少し早く彼を見出しておくべきだったな」としみじみと語ったと伝わります。

こういった言動からも「個人」としての劉禅はそこまで「馬鹿」だったと思えないのです。

 

もちろん、「君主」としての評価はずっと主張するように「落第点」ですが、劉禅は劉禅なりに国の将来を察していて、

「下手に有能ムーブをせず、どうしようもない、誰もついてこないような馬鹿という風評が広まった方が安全」

と考えていた・・・私にはそう思えてくるのです。

 

劉禅がただ一度「激怒」した瞬間

ちなみに、先ほど申しましたように「プライベートの逸話が少ない」劉禅陛下ですが、数少ない、恐らく唯一

”劉禅が本気でブチ切れた”

面白い逸話があります。

 

それは諸葛亮が死去した直後にさかのぼります。

 

諸葛亮は今でこそ「斜陽の蜀を支え、最期まで尽くした」と結果的に評価されていますが、他の国や中華の歴史でよくあったように

「皇帝を思うがままに操り、専横を極めた悪臣・諸葛亮」

という見方をする人間も一定数いたのです。

 

実際、諸葛亮の存命中からそういう見方をする人間もゼロではなく、そんなアンチ諸葛亮の一人に李邈なる男がいました。

 

彼は直言居士・・・というよりはKYコメンテーターともいうべき人物です。

これまでも数々の空気の読めない発言で劉備から冷遇されてきた李邈ですが、特に諸葛亮が断腸の思いで下した馬謖処刑命令をも、当てつけがましい正論で堂々と批判するなど、諸葛亮にも堂々と喧嘩を売っていました。

この発言で流石の諸葛亮も頭にきたのか、彼を成都へ送り返しているのですが、そういった経緯から李邈の方もかなり諸葛亮を嫌っていたと思われます。

李邈は諸葛亮が死ぬや否や、大喜びで劉禅に上表します。

 

以下意訳ですが、相当ボロクソに諸葛亮を批判していたので全文載せます。

「いやぁ~~~諸葛亮のヤツ、がっつり軍権を握っててしかも野心の塊だし、絶対反逆の機会を伺ってましたよねwww?

そんな諸葛亮にあんな兵権を持たせちゃうとか、私は前からめっちゃ危機感持ってたんですよーーー!いやぁ危なかった!

でも諸葛亮がくたばったおかげで、もう皇室一族もお国も安泰ですねぇ!諸葛亮がくたばったことは、蜀全国民にとって大変おめでたいことですわ!」

 

・・・諸葛亮は確かに「蜀の全権を握って」いました。

実力も人望も備えていた彼が本気になれば、どこかの鍾会と違い、一国を興すことは十分可能だったはずです。

もし彼に本気でその気があったならさっさとそうしていたでしょうし、わざわざ魏との戦いなど繰り返す意味もありません。

 

まして、彼は劉禅陛下をただ「臣」として支えてくれただけでなく、永安に引きこもった父に半ばネグレクトされたような自分を補佐し、さらにその前には幼児だった自分を孫夫人の誘拐から救ってくれた人物でもありました。

 

その恩人でもある諸葛亮を、李邈は堂々と劉禅の前で罵倒して見せたのです。

 

劉禅は自分の意志をほとんど示したことがありませんでしたが、諸葛亮を侮辱されたこの時だけは違いました。

 

劉禅陛下は恐らく「最初で最後」と言ってよいほど「激怒」します。

 

諸葛亮や劉備でさえ殺すことまではしなかった李邈を、劉禅はすぐさま投獄し、容赦なく処刑したのでした。

 

・・・他にも家臣の痴情のもつれによるDV事件や、失脚した臣下の暴走などで、劉禅が処刑を命じた例もなくはありません。

しかし、あの劉禅が自ら怒り狂って「即処刑」を命じた・・・と記載されたのは、後にも先にもこの時だけでした。

 

皇帝としてなのか、一人の恩人としてなのかは分かりませんが、少なくとも劉禅は諸葛亮を本気で信任していたのでしょう。

 

その後、宦官の黄皓なんぞを信任さえしなければもう少しいい話に持って行けた気もするのですが。

そういう抜けたところが劉禅陛下の難しさであり、愛嬌というものでしょう。

 

劉禅没後の劉一族

劉禅が退位して安楽公に封じられた後、長男を失っていた彼は後継ぎの選択でやや揉めます。

 

結果、彼の寵愛していた六男の劉恂が劉禅の死後に安楽公を継いだのですが、これがとんでもない不良でした。

後を継いだはいいものの、しばしば問題行動を起こしていたとされます。こんなとこでもいい話路線を許さない劉禅

 

そんな劉家でしたが、最終的に五胡十六国時代の先駆けとなる永嘉の乱によって一族はほぼ皆殺しに。

劉禅の弟である劉永の孫・劉玄だけが、かつての祖国のあった地に興った成漢に落ち延びて生き残りました。

 

その後、劉備筋の一族は特に目立った活躍もないまま埋もれていった・・・と思われます。

 

劉禅という君主は「無能」。しかしそれでも国が治まった理由

今回、劉禅陛下を通して語りたかったのは実はこの部分なのですが、皇帝としての劉禅とはなんとも評価が難しいし、正直とても有能とは思えない。

にもかかわらず、彼は結果的に40年間もの間国を保っていたという事実は今でも様々な議論を巻き起こしています。

中には「劉禅は有能だった」という意見もありますが、私の見解はこの記事でも最初に述べた通り。

 

皇帝としての劉禅は、特に優れた政治力や指導力を発揮したわけではありません。

しかし、その「口を出さない=基本丸投げ」な特性が、オールラウンダーかつ忠誠心の塊である「諸葛亮」という奇跡的な存在と、バッチリ嚙み合っていた。

だから諸葛亮存命中はその主導の元、彼の足を引っ張ることなく存分に実力を発揮させることができたわけです。

 

ただし、そんな諸葛亮の遺産も(死後数十年持ったのはすごいですが)以後の蜀の内部対立や北伐の失敗でどんどん擦り減っていき、ついに力尽きて魏の侵攻を受ける羽目になりました。

それが劉禅陛下の治世後期。

 

劉禅陛下治世の蜀漢を見ていて思うのは、

「人の和」次第では、無能な君主だろうと割と何とかなるということです。

・・・そもそも、国や組織が上手く回るかに「トップ個人の能力」は必ずしも重要ではないと私は考えております。

 

武芸に優れている、用兵に長けている、智謀や政治感覚に優れている・・・

確かに君主自ら全部できた方が良いのは間違いないのですが、それだけで国は治まりません。

 

自分の「個人的としてのスペック」を過信して「人の和」を軽視し、破滅していった人物や国は、三国時代に限らず大勢存在します。

 

人材のいない蜀と言われますが、実際諸葛亮死後も決して優れた人物がいなかったわけではありません。

しかし、魏延や楊儀は政争に敗れて姿を消し、董允、費禕、蔣琬、姜維もひとかどの人物ではあったものの北伐の方針を巡って団結できず、一枚岩で国を引っ張るほどの指導力を発揮することはできませんでした。

 

組織とは難しいもので、野球ゲームのように最強選手を揃えればバンバン試合に勝って優勝できるものでもありません。

現実にそんなチームを作っても最悪、選手同士がうまく連携できず、足を引っ張りあってしまい、士気も下がり、十分な力を発揮できないのです。

 

「なぜ(能力がない)劉禅が40年も国を治められたか」という問いに対しては「人の和が噛み合っていた」からであり、

なおかつ「治世後半はそれが崩壊していき、滅亡へ進んでいくしかなかった」のだと思います。

 

劉禅陛下の人物は、妄想まみれな部分はあるものの考察していて色々楽しかったです。

新たな発見や気付きも多数あり、危うく劉禅陛下を「様々な視点を与えてくれる賢者」と錯覚しそうになったほどです。

そのためとんでもない長文になってしまいましたが、少しでも劉禅陛下に対して興味を持っていただければこれに勝る幸せはありません。

それでは、ありがとうございましたm( )m

 

参考文献・参考サイト

>>ちくま「三国志」訳本

そして、ツイッターで絡んでくださる皆様の考察

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