どうも、暇孔明です。
今回は後漢末時代の大物・袁紹について語っていきたいと思います。
歴史上の人物とはしばしば
「実像とは全く違った形で後世に伝わってしまう」
ということが珍しくありません。
たとえば、われらが劉備様。
正史においては
「中央に逆らって天下を荒らす胡散臭い皇族」
に過ぎなかった彼ですが、演義などの影響もあって、
「漢の天下を奪った曹一族と敢然と戦う、聖人君子の英雄」
という、史実の変人っぷりとはだいぶ違った人物として伝わっています。
曹操にしろ、諸葛亮にしろ、史書に見られる逸話は必ずしも現代私達に伝わっている「イメージ」と同一とは限りません。
それが歴史の面白さであり、はたまた本人や後世の歴史家達からすれば迷惑なことでもあるでしょう。
一方、
「事績を考えると結構すごい人物だったのでは?」
という人物でも「敗者となったがゆえに」
その人格・実績全てが悪い方向に解釈され、
割を食ってしまうケースも多々あります。
そんな人物の代表例として私が挙げたい男こそ、
後漢末の名門にして、当時諸侯最強勢力を誇った
袁紹(字・本初)閣下でして。
むろん、正史の注目度が高まった最近では、
袁紹も次第に評価されるようにはなってきました。
「曹操には及ばなかったが、河北統一を遂げただけの実力はあったのではないか」
というような。
・・・ですが。
正史を改めて読んでおりますと、
袁紹という人物はまだまだ再評価の余地がある
と思えてくるのです。
一般的な「名門の御曹司」的イメージで描かれる「袁紹像」に長く触れてきた方が、正史の袁紹の活躍を見るとまず面食らうことは間違いありません。
そもそも「名門の御曹司」的なキャラも、正史を読むと「あれ?あれ?」と思えるほど崩壊していく・・・
そんな袁紹閣下の魅力(?)について、本日はご紹介したいと思います。
それでは、よろしくお願いいたします。
袁紹の生涯と概略
プロフィール
姓名 | 袁紹 |
字 | 本初 |
出身 | 豫州汝南郡汝陽県 |
生没年 | ???~202年 |
主君 | 霊帝※→少帝弁→献帝(実質独立勢力) ※大将軍・何進の直属 |
正史略歴
「四世三公」(4代続けて後漢王朝の最高大臣である「三公」を輩出した家柄)と呼ばれた袁家の一族として生まれる。
父親は諸説ありはっきりしていないが、母については従兄弟?の袁術から「妾腹の子」と蔑まれていたため身分は決して高くなかった(婢女)ようである。
若い頃は曹操や許攸、張邈ら悪友とつるんでいた不良だったが、家柄を鼻にかけて傲慢な態度をとることはなく謙虚な人柄で人気を集めていた。
仕官してからは「清廉な官僚」として名を上げる。
やがて当時の大将軍であった何進の腹心として活躍。
何進が宦官による派閥・十常侍との政争で命を落とすと、袁術らとともに宮廷内の宦官二千人余を粛清した。
しかし、その混乱に乗じた董卓に皇帝を握られたため結果的に後漢崩壊の原因も作ってしまう。
反董卓連合の盟主に祭り上げられるが、本人は積極的な行動は起こさなかったためこれが後世の批判の原因にもなる。
しかし一方で袁紹は都の現皇帝である献帝を救うどころか、とっくに見限っていた節もある。
たとえば当時の皇族で人望の高かった劉虞を新たに擁立しようとしたり、沮授らによる献帝擁立の進言も拒否してもっぱら河北での領土拡大に専念。
都の献帝を無視して独自の道を歩み始めていた。
199年には宿敵・公孫瓚を破って(易京の戦い)河北をほぼ統一。
曹操との決戦において、緒戦(白馬・延津の戦い)こそ出し抜かれたものの、曹操相手にむしろ優勢に戦い官渡城に追い詰めるが、内部不和による裏切りなどの要因もあって大敗を喫する。(官渡の戦い)
それでも簡単には崩れず、敗戦後に領内で発生した反乱をことごとく制圧して健在を示すも202年に病死。
後継者を明確に定めぬままの死であったため、彼の死後息子たち(袁譚・袁尚)は後継者の座を争って内部分裂を起こしてしまう。
その隙を突いた曹操によって袁一族は滅ぼされた。
敗者として名を残してしまった袁紹だが、河北では司馬氏の時代になっても袁家の治世を懐かしむ声があったという。
「名門の御曹司」というイメージとは裏腹に、袁紹の生まれは袁家本流から外れた「妾腹の子」であったため、決して家柄だけの人物ではなかった。
正史に見られる彼の姿は良くも悪くも「乱世の雄」であり、己の実力で名を上げた人物といえる。
余談だが、袁紹は「婦人のごとし」と揶揄されたほど小柄な優男で、なおかつ堂々とした威厳も纏った美男子だったと伝わる。
袁紹と他の人物との関係
袁術
一族(従兄弟とも兄弟とも言われるが、袁紹の実父がはっきりしないため定かではない)だが、袁紹とは名門袁家のトップの座を巡ってしばしば争っていた怨敵。
というより、袁術の方が袁紹を「妾腹の子」と見下していた。
当初は宦官討滅などで協力関係にあったが、反董卓連合の消滅を機に本格的に敵対。
その最大の武器は、他人を利用する才能、そして異常なまでの嗅覚&しぶとさ。
何度敗戦しても復活し、袁紹とはまた違った形で勢力を拡大していったが、最終的に皇帝を称したことで孤立・自滅していった。
憎き曹操や劉備から逃れ、プライドを捨てて袁紹を頼ろうと北上するもその途上で「憤死」したと伝わる。
曹操
悪友兼宿敵。
当初は袁紹の一傘下の武将だったが次第に実力を伸ばし、袁紹が行わなかった献帝擁立に成功。
皇帝の命という大義名分をもとに、袁紹が無視できないほどの勢力を築き上げた。
最終的に官渡の戦いでは多くの運にも恵まれ辛勝するが、袁紹の存命中は曹操も河北に手を出せなかった。
袁紹のことをどう思っていたかは定かではないが、曹操が河北を押さえた後、曹操は袁紹の墓前で泣いたとも伝わる。
公孫瓚
ある意味袁紹のライバルとしてはこちらの方が目立っているかも知れない。
「白馬義従」と呼ばれた精鋭騎兵を率い、対騎馬民族戦のプロとして活躍。
一方で対異民族政策を巡り、高徳で知られた漢の皇族・劉虞と対立して和議を妨害するなどクセの強い人物でもあった。
公孫越の死や冀州奪取での密約など、袁紹とは順調に敵対フラグを立てていき最終的には界橋の戦いなどで激戦を繰り広げる仲に。
袁紹軍相手に優勢に戦っていた時期もあったが、人望高い劉虞を殺害したことをきっかけに幽州の異民族・劉虞旧臣をことごとく敵に回し、自身の失政もあって孤立。
最終的に追い詰められ要害・易京に籠るも、袁紹軍による執拗な攻撃の前にじわじわと追い詰められ、ついに敗死する。
戦後、袁紹は敵対しつつあった曹操への脅迫として公孫瓚の首級を送り付けたと伝わる。
董卓
敵。
反董卓連合の動きにともない、袁紹の一族を皆殺しにしたため一族の仇ということにもなる。
袁紹が決着をつける前に、呂布に殺されてしまった。
何進
精肉業者から、妹の美貌を利用して外戚・大将軍まで駆け上がった逆シンデレラ男。
袁紹も彼の腹心として活躍していた。
「妹の七光り」「肉屋」などと馬鹿にされるが、少なくとも黄巾の乱に対する対処では大きな失敗をせず、配下からもそれなりに信頼されていたなど、無能ではなかったようである。
宦官とも当初は上手くやっていたが最終的に敵対し、政争の末暗殺されてしまう。
そして、それが袁紹の宦官殲滅の契機になったのであった・・・。
袁譚・袁煕・袁尚
息子達。
長男・袁譚は青州を、袁煕は幽州を任され、袁尚は手元に置いていた。
袁紹曰く「息子たちの器量を見定める」という合理的な行動であったが、沮授には「必ずや乱のもとになる」ダメ出しされた。
袁紹死後、袁煕はなぜか中立的だったが袁譚と袁尚の間で案の定、後継者争いが発生、自滅していった。
田豊
袁紹の「悲劇の参謀」として有名。
袁紹に様々な進言をしたが、ことごとく退けられた末、投獄され、最期は官渡での敗戦の八つ当たりのように殺された・・・とされる。
ただし荀彧は「剛直すぎて、上司に逆らう」と評し、田豊には性格的な欠点があると指摘していた。
戦略的センスは間違いなくあり、当初の速攻戦→持久戦に作戦を切り替えるなどある程度の柔軟性はあったようだ。
沮授
田豊に並ぶ参謀であるが、役職的には将軍といえる人物。
河北平定には彼の功績が大きかったとされ、曹操も彼の才能には「彼がいれば天下の事業など容易かった」と絶賛するほど一目置いていた。
田豊同様、官渡の戦いでは袁紹に冷遇され、敗戦を予期しながらも出陣。
敗戦後、あろうことか味方から置き去りにされ、曹操に捕らえられる。
沮授の才能を買っていた曹操は降伏を勧めるがそれを頑として拒否。曹操の元から逃げ出そうとしたためやむなく処刑された。
生前、袁紹の息子達の後継争いを予見していたと思しき言葉も残している。
また曹操より先に献帝擁立を進言しており、「これが実現していれば天下の情勢は変わっていた」と評されることも多い。
許攸
袁紹・曹操らとつるんでいた元・悪友。
官渡では許都急襲策を受け入れられなかったため曹操に降伏した・・・とされるが、元々「財貨に貪欲な人物で、身持ちが定まらない」と荀彧に指摘されていた問題児。
官渡の折も彼の一族が法を犯したかどで逮捕されており、それに連座して許攸自身も失脚を免れない状況だった。
保身のためもあってか、決戦中に圧倒的劣勢の曹操に降伏。
あろうことか最高機密である烏巣の兵糧集積所の場所をバラして袁紹を敗北へ・・・そして、曹操を逆転勝利へ導いた。
その後、曹操が袁氏の首都であった鄴を攻め落とした折「曹操がここにいるのは俺のお陰」とイキったために殺されてしまった。
袁紹の評価について持っていた違和感
袁紹「無能」説
袁紹は「三国時代」に突入する以前の時代に、主に曹操のライバルとして活躍した人物として知られます。
最盛期には河北を中心に四州を勢力下に置き、諸侯でも最大の勢力を誇った人物であり、しかも後漢王朝で代々要職を占めてきた名門の出身。
事績だけ見れば、かなーりの重要人物なのですが・・・
ぶっちゃけ、袁紹に対して皆様はどのようなイメージをお持ちでしょうか?
無論、詳しい方にとってはもはやほぼ否定されているイメージであることは承知ですが、一般的によく聞く袁紹評としてはだいたい、
- 優柔不断
- 戦下手
- ボンボンの御曹司
- 部下を使いこなせない無能
と、おおむねこのような感じで・・・
正直言って「良いイメージ」とは言えないのではないでしょうか。
・・・恐らく三国志にあまり詳しくない方の一般認識では
「大軍で曹操に挑んだのにボコボコにされた三国志版・今川義元みたいな奴」
くらいにしか知られていないのでは。
特に横山光輝さんの漫画が印象的で、
- 「名門出身のボンボンさ」
- 「優柔不断さ」
などが強調されたうえ、原作漫画では曹操との決戦自体が省略されるという不遇っぷりです。
(※アニメ版では描かれましたが、色々と残念な立ち振る舞いを見せています。)
他にも、袁紹を「無能」「お坊ちゃん」などと評する作品は多数ありますが・・・。
しかし、一方で私は昔からこういう疑問を持っていたのも確かです。
本当に無能だった人物が、そこまでの勢力を持てるものなのかと。
袁紹の当時の勢力は、今の北京を含む黄河より北の広大な「河北」と呼ばれる地域。
特に并州・幽州などは北方異民族との関係も難しく、決して統治は簡単ではない地域です。
それを袁紹は見事統治し、存命中は大きな反乱もなく治めていたのです。
また、「優秀な臣下に任せっきり」タイプの人物でもなく、必要あらば自ら前線で戦い、勝利を収めてきた戦場の雄でもあります。
世間でいう「ボンボン育ちの無能」な袁紹と、史実の袁紹像にはどうも大きなギャップがある。
だから、私はそんな袁紹に対する「軟弱」なイメージを払拭すべくこの記事を書いてみようと思い立ったわけですね。
ではそもそも、袁紹はどのタイミングから「無能」という評価をされるようになったのでしょうか?
史書や各種メディアでの袁紹
もちろん、三国志ファンにとっては袁紹も十分にメジャーどころの人物ですし、少なくとも三国志好きの中ではだんだん再評価は進んできています。
そもそも、史書を読んでいると袁紹の評価はそこまで低いわけでもありません。
大本となった陳寿の『三国志』の袁紹伝は、後継者問題を引き起こしたことや、猜疑心の強い人格には批判的な言葉を残していますが、
「袁紹の威容は堂々としており、名声は天下に轟き、河北に割拠した」
とも評価しており、決して「無能扱い」というわけでもないのです。
(そもそも、陳寿は特定の人物をメタクソにこき下ろすという感じの文章はあまりなく、淡々と事実をもとに批評する感じが強いです。たまに特定の人物への愛憎が暴走してしまう裴松之さんは見習ってください)
やはり、袁紹無能説が固まってしまったのは後世の『三国志演義』や、日本での各種メディアの影響が大きいのではないでしょうか。
もちろん日本の昔の作品も袁紹をそれなりに評価している作品はあります。
先ほどちらっと名前を出したのですが、たとえば横山光輝さんの漫画の原作になった吉川英治さんの三国志では、
「決して愚鈍ではないが、名門としてのプライドや保守思考が判断を鈍らせている(うろ覚えですが)」
という人物像の袁紹が描かれていますし、
北方謙三さんの描く『三国志』に登場する袁紹も、
「戦は好まないがどっしりと構えた威厳を持ち、狡猾さも兼ね備えた群雄の一人」
として割と好意的に描かれています。
また曹操を主人公にした漫画『蒼天航路』では、
「天才・曹操とは対照的で常識人ではあるが、それゆえの粘り強さを持った強敵(とも)」
としての格好いい袁紹が見られます。
(自省の末、デブってしまったあのラストについては賛否両論ですが。)
こうしてみると横山三国志が一番袁紹の悪いイメージに影響している気がしなくもないです。少なくとも日本では・・・
ただ、比較的袁紹を高く評価しているメディアも、
- 「名門の御曹司」
- 「決断力に欠ける」
- 「保守的な常識人」
という、ある種共通するイメージはあまり変わっていないようにも思えます。
だいたいの作品で、好意的にしろ逆にしろ、袁紹の人物像というのはこの延長線上で描かれることが多い。
しかし今回は、この「名門のお坊ちゃん」「優柔不断」という一般的な袁紹のイメージ自体が、正史を読むと「どうも違うのでは?」と思えてくるのです。
袁紹は「優柔不断」?
これは、私が「袁紹」という人物を私が知ってからずーーーーーっと、「袁紹は無能なのか?」という疑問と同時に抱き続けてきた違和感なのですが。
袁紹とは、言うほど優柔不断なのだろうか?
・・・こんなことを申しますと「なんだ逆張りかよ、奇をてらいよって!」と思われるかもですが。
正史における袁紹の行動をよく見ていますと、「優柔不断」とは全く違う袁紹像が見えてきます。
一般的な話の範囲だけでも、たとえばこんなことをやっています。
- 何進が死んだ混乱の中、真っ先に宮廷へ乗り込んで、当時権勢を握っていた宦官達を2千余人まとめて殺害。
- さらに、官渡の戦いでは慎重派の意見をことごとく退けて曹操討伐を断行。
・・・むろん結果的にこれらの行動は裏目ったワケですが、少なくともこれらの行動だけでも「優柔不断」という評価は個人的にかなり疑問でした。
また、陳寿の正史「三国志」ではさらに袁紹の物騒な一面が見えてきます。
- 自分の重臣、時には旧友ですら、逆らった人間・危険と判断した人間であればサクッと処刑したり、殺害未遂に及んだことも複数。
- あの呂布ですら、袁紹に始末されかけて命からがら逃げだしたことも
またある時、遠征中に火事場泥棒を狙った賊軍に本拠の鄴を奪われ、「家族が危ない!」と家臣達はおろおろ、中には涙するものまでいた状況。
- その中にいても袁紹だけは顔色一つ変えず泰然自若
- 即座に返す刀で本拠へ駆け戻ると、賊を見事に撃退
さらに、界橋の戦いで公孫瓚の奇襲を受けた際、すぐに隠れるように進言する田豊らを退け、
- 「俺は逃げも隠れもしねぇ!」と兜を投げ捨てて奮戦。麹義らの援軍が来るまで耐え抜く
などなど「戦場の雄」としての一面も見せています。
・・・このように、袁紹の生涯をよーく観察していると、
お前のような優柔不断がいるか!
としか思えないような活躍もかなり多いのです。
少なくとも、一般的にイメージされる「優柔不断=決断力がなくいつも誰かの判断を仰いだり、迷ってオドオドしている」とは全く違うように思うのです。
むしろ、河北異民族や反乱軍の制圧で活躍した英雄・公孫瓚を打ち破るだけの実力も、そして決断力も兼ね備えた人物だったのではないでしょうか。
袁紹は献帝を「迷って逃した」のではなく「擁立する気がなかった」?
彼の優柔不断の根拠として挙げられがちな逸話の一つに、「献帝擁立問題」があります。
袁紹は当時でも諸侯最大の勢力であり、曹操よりも先に献帝を擁立すればよかったのだと。
それを進言した沮授らの意見を退け、結局曹操に先を越された・・・だから優柔不断なのだと。
しかし、史実の袁紹を見ていると全く違う側面が見えてきます。
袁紹は、決断力がないから献帝を擁立しなかったわけではなく、
むしろ、献帝を擁立する気など更々なかったのではないか。
そもそも当時、現皇帝・献帝は「暴虐なる董卓が、正当な皇帝だった少帝の首を挿げ替えて擁立した操り人形」という認識が少なからずありました。
その証拠に、董卓の傀儡である献帝(劉協)よりも相応しい人間を新たな帝に祭り上げるべしと考える一派も当時存在したのです。
その「新帝擁立派」の中心にいたのが何を隠そう、袁紹なのです。
その「新皇帝」候補の名は「劉虞」。
そう、公孫瓚に殺されてしまった人物です。
彼は当然、その姓からも想像できるように、漢室に繋がる人物。
また単なるお飾りではなく、公孫瓚が武力で制圧しかねていた北方騎馬民族・烏桓を徳の力で服従させるなど、後漢末期の皇族の中ではかなり有望な人物とされていました。
ゆえに、袁紹はこの劉虞を新皇帝に祭り上げ、都の董卓に対抗せんと策をめぐらせていたのです。
最終的に袁術らの反対、さらに劉虞自身が皇帝即位を頑なに拒否したこともあり、このプランは実現しませんでした。
(まあ袁術の目的は別にあったわけですが)
ですが、この一件から見ても袁紹が都の献帝をはなから見限っていたフシがあるという根拠には十分なるはずで。
袁紹が献帝を擁立しなかったのは、決してビビっていたわけでも躊躇っていたわけでもありません。
「献帝?あの董卓に擁立されたロボットじゃん。そのような小僧を主君と仰ぐなど無用である。」
「劉虞様も死んじゃったし、なんだったら俺が新しい王朝立ててもええんちゃう?」
という考えすらあったのではないでしょうか。
曹操の徐州攻撃中、袁紹は動いていた
もう一つ、よく袁紹が「優柔不断である」根拠となる逸話として挙げられるのが官渡の戦い直前、曹操が徐州の劉備を攻めたときの動きです。
一般的にはこの際、袁紹の腹心・田豊が「今なら許都はがら空きだから、今攻め込めば難なく曹操を倒せる」と進言します。
しかし、袁紹は「末子が病気で離れるわけにはいかない」と田豊の進言を受け入れず・・・。
田豊は杖を投げて「千載一遇の好機を失った!」と嘆いた・・・そう伝わります。
この話は、確かに陳寿の正史「三国志」に載っている逸話です。
やはり、袁紹はこういう重大なタイミングであれこれ言い訳を付けて動かない人物なのだ、と。
そういう印象を抱いても仕方がないでしょう。
しかし、同じ陳寿の「三国志(魏志)・于禁伝」を読むとこんなことが書かれております。
「曹操の劉備攻撃の隙を狙い、袁紹は延津を攻撃したが、于禁の守りは固く、撃退された。」
袁紹が、実はちゃんと曹操の留守を狙って動いていたという、前の逸話とは矛盾する記載があるわけです。
袁紹本人は出陣しなかったという解釈もできるかも知れませんが、少なくともジャブは打っていたのです。しかし「于禁らの奮戦によって撃退された」ため「それ以上は進撃できなかった」のが真相だったわけです。
また、これは完全な憶測オブ憶測なのですが・・・この「袁紹の優柔不断を示す逸話」にはもう一つ疑問点があります。
それは、正史に突然登場し、袁紹が出陣を見合わせるほど心配した「子」とは誰だったのかという謎です。
のちに後継者となる袁尚でしょうか・・・?
なんせ、この「子」の名前が「三国志」では明記されていないのでよく分からないのです。
本場・中国のドラマで、正史的な要素も盛り込まれた「三国志ThreeKingdom」では、袁尚とは全く別の幼子という解釈で描かれていたのが興味深いです。※ドラマの袁尚は成人しており、従来のイメージ通り袁譚と仲良く張り合っていました。
・・・そもそも袁紹は肉親に対してそこまで情がある人物でもないように思います。
母の喪にこそ服しましたが、基本年長者の言うことを聞かずに叔父らを呆れさせることも多く、しまいには都に一族を置き去りして結果董卓に皆殺しにさせてしまう。(一族が邪魔だったからワザと見殺しにした説すらある)
さらには息子同士に能力を競わせたりもして、腹心の沮授を心配させています。
こう見ると、袁紹は必要あらば家族すら冷酷に扱う人物という印象すら抱いてしまうのです。
そんな彼が果たして「名前も伝わっていない末子」のために出兵をやめるほど苦悩したのであろうか。
・・・そう考えるとこの話自体捏造なのではないか?という疑惑も出てきます。あくまで憶測ですが。
・・・何はともあれ、以上のことから。
「袁紹=優柔不断」という評価はもう少し見直されてもよいのではないでしょうか?
これはむろん袁紹を過大評価しようというわけではなく。
「袁紹の真の欠点」についてもいろいろ見直されるべきなのではないかと考えております。
袁紹の真の欠点、そして敗因は・・・
勝利寸前だった袁紹の「官渡の戦い」
対曹操主戦論は決して間違ってはいない
さて、袁紹の「真の欠点」について語る前に。
袁紹にとって致命的となった「官渡の戦い」を見ていきましょう。
ときは西暦200年・・・
袁紹は河北を統一した勢いでついに黄河を渡って中原の曹操討伐を目指します。
言うまでもなくこの戦いについても、袁紹はボロクソに言われがちです。
ご存知の方も多いようにこの遠征について袁紹の配下たちの意見は割れたわけですが・・・
- 慎重派の田豊や沮授は「国力差による持久戦」を主張。
- 一方で審配や郭図らは「曹操が疲弊している今こそ攻めるべし」と主張。
結果論から言えば、官渡で負けてしまったわけですから、
「田豊らの慎重派が正しかった」
「主戦論を採用した袁紹は愚かだった」
ということになるかも知れません。
しかし、審配や郭図が
「今すぐ曹操を倒すべし、今のうちに叩かねばかえって攻めにくくなるかもしれない」
と主張したこと自体も決して間違いではないと思うのです。
田豊の進言とは、
「国力差を活かし、正面からはぶつからず、疲弊させれば、曹操は3年と持たず自滅するだろう」
というもので、沮授も同様に
「騎兵を中心とした急襲部隊で国境付近の曹操領を荒らし、持久戦に持ち込みながら疲弊させるべし」
という策を主張しました。
一見するとそれらしい策ですし、曹操もこれを後から聞いて
「彼らの策を袁紹が採用していたらどうなったか分からない」
と語ったと言いますが・・・
褒め殺しの達人である曹操のこういう発言は、リップサービス的な側面も強いため、そこは差し引かなければなりません。
なんせ「あの」曹操です。
田豊らの言うように持久戦に持ち込まれたからと言って「3年」もの間やられっぱなしなワケがありません。
実際、当時の曹操の動きを見れば、ボケっと袁紹軍の持久戦に持ち込まれるつもりなどなかったことは明白です。
むしろ、史実の動きを見ると、曹操は袁紹の持久戦の構えを巧みな外交戦略で突き崩しつつあったとすらいえます。
この頃の袁紹は、荊州の劉表と結んで曹操の背後を脅かし、さらには劉備を使って曹操の背後を脅かすなど、周到に「挟み撃ち」の形を作っていました。
加えて中央政権に反抗的な馬騰が西に、孫呉が生んだウォーボーイ・孫策も南から北上を狙うなど、袁紹が彼らと連携できれば「対・曹操包囲網」を形成し、曹操を袋叩きにすることも可能だったのです。
しかし曹操は、官渡決戦までの間にこの外交的不利を急速に巻き返すことに成功しました。
まずは劉表の事実上の先兵として活動していた張繍を降伏させ、さらに孫策を味方につけて劉表の守りの要であった黄祖を攻めさせ、劉表を牽制します。
同時に劉表領内では同時期に大規模な反乱も勃発していたため、劉表は動くに動けない状況になってしまいました。
官渡の頃の劉表もまた「中途半端に中立を貫いた」と批判されることも多いですが、ご覧のように決して優柔不断であったわけではありません。
むしろ「動くに動けない」状況だったことが分かりますね。
もっと言えば、この反乱自体も曹操の手が回っていた可能性があります。
なお「項羽に似ている」と言われたほどの戦闘狂・孫策は劉表を攻撃する一方でちゃっかり徐州侵攻を狙いましたが、これは失敗に終わります。
ひとつは、徐州を守っていた陳登らの奮戦によるもの。
そして何より、孫策自身がかつて殺した人物の「元食客」の手によって暗殺されてしまったのです。
曹操の参謀・郭嘉はかなり具体的に孫策の横死を予言していましたが、タイミングが良すぎるといえばあまりにも良すぎる死ではありました。
そして、その孫策を継いだ孫権をすかさず曹操は懐柔し、恭順させることに成功したのです。
これで南の二大敵国からの脅威はほぼ取り除かれた形になります。
さらに西の馬騰も懐柔して安全を確保、さらに徐州の臧覇に袁紹領の青州を荒らさせるなど、曹操は田豊らの進言した「持久戦」を逆に突き崩しつつあったのです。
・・・このように、放っておけば何をするか分からぬ曹操を「早々に叩くべし」と主張した審配や郭図は決して間違っていたわけではなかったし、
曹操がやすやすと「持久戦」に乗ってくれる相手でないことは、上記の巻き返しを見ても明白ではないでしょうか?
何より曹操には「帝の御命令」という大義名分(その分副作用も多数ありましたが)があり、強力な外交カードとして手元に残ったまま。
むしろ時間が経てば、袁紹ではなく曹操に味方する者も増えていった可能性すらあったのです。
背後をかく乱していた劉備も、袁紹が動かなければ徐州を追い出された際の二の舞で早々に討伐されていた可能性もある。
ならば、今のうちに叩くしかない。
曹操が万全の準備を整えてしまう、その前に。
・・・とそこまで考えれば、袁紹軍の主戦論についても「袁紹が愚かだった!」だけではなく、別の見方が生まれますよね。
悪い結果に終わった物事は「すべてが悪かった」とネガティブに捉えられがちです。
袁紹もまた、南征が失敗に終わった結果だけを見られ「決戦を挑んだことすべてが間違いだった」と思われてしまいがちです。
・・・しかし、当時の状況判断としては袁紹が遠征を断行したのも決して間違いではないといえるのではないでしょうか?
実際の戦いでも最後の最後まで戦況は袁紹の圧倒的有利。
袁紹軍は勝っていても全く不思議ではありませんでした。
「撤退」も考えたほど追い詰められていた曹操
一般的に「官渡の戦い」では、
「圧倒的な兵力差を持つ袁紹を、曹操は終始翻弄し続けた」
ような印象で描かれる創作も多いです。過程そのものが省略されている作品すらありますが
確かに曹操軍は白馬・延津の戦いで顔良・文醜を討ち取るなど、幸先の良い戦果を挙げています。
・・・が、曹操が優勢だったのはこの緒戦くらいであり、その後はむしろ押される一方でした。
緒戦で二将を討たれはしたものの、その程度で怯む袁紹ではありません。
リベンジを期す袁紹は大軍を城壁のように並べ、じりじりと前進して曹操軍を踏み潰す作戦を取ります。
術も策も使わないゴリ押しだが、それゆえに小手先の術も策も通じない。大軍による正攻法です。
(※両軍の兵力差については注釈者・裴松之が意見を述べるなど諸説ありますが、曹操が劣勢だったことは確かなようです。)
曹操は果敢に攻撃を仕掛けるものの袁紹の布陣を突き崩せず、ただでさえ劣勢にもかかわらず兵の1~2割を失うほどの大敗を喫して官渡城に逃げ込みます。
「兵の1~2割を失う」とだけ書かれるとピンとこないかも知れませんが、これは我々が思うより大きなダメージです。100人隊であれば、メンバーのうち平均10~20人が帰ってこない(戦闘不能になる)計算になりますし、その欠員を補充したり再編成・再訓練するのは非常に大きなコストと時間がかかります。※現役自衛官から聞きました。
官渡城に逃げ込んだ曹操軍に、「今日こそは仕留めてくれるわ!」とばかり、袁紹は容赦ない猛攻を仕掛けました。
公孫瓚を攻めた時と同じように、城の周辺に土塁と櫓を築いて大量の矢を撃ち込み、さらには地下道を掘って進撃。
この時の官渡城は「矢が間断なく降り注ぎ、盾を被らなければ外を出歩けない」ほどだったと伝わります。
曹操も投石器を繰り出して櫓を破壊し、城内から塹壕を掘って地下道を掘ってきた袁紹軍に抵抗します。
・・・確かに善戦する曹操ですが、実はこのとき全く余裕がありませんでした。
むしろ、戦が長引くほど曹操にとってはまずい状況だったのです。
- 第一に、防戦に入ったことによる領内の動揺&袁紹による調略。
- 第二に、曹操軍の兵糧不足。
当時、袁紹が事前に派遣した劉備の攻撃と調略によって、曹操領の多くが袁紹に寝返ってしまいます。
おかげで曹操は、本拠地の維持すら困難なほど追い詰められていました。
もちろんそうなれば、領地からの物資徴収もままなりません。
なんと、兵力の少ないはずの曹操軍が、大軍の袁紹軍よりも早く食料不足に陥っていたのです。
何度か袁紹の輸送部隊を狙って兵糧を焼き払うなどの戦果は得ますが、奪うことはできずほぼ焼け石に水状態。
そうこうしているうちに曹操軍の兵糧不足はさらに深刻化。
一刻の猶予もない状態でした。
なおこれは後で判明するのですが、この時結構な数の配下が袁紹に内通するなど、曹操軍はまさに「詰み」一歩手前だったのです。
というか、当の曹操自身が荀彧に対して
「イクちゃん、俺もう無理、許都に撤退したい・・・ひぃん・・・」
などと弱音を漏らしていたのですから、いかに危機的な状況であったかが伺えます。
一方の袁紹軍はというと、曹操軍の兵糧部隊襲撃を許してしまうなどのミスもありましたが、それでも曹操に比べれば余裕がある方。
袁紹は緒戦の敗戦をものともしない戦いぶりと、劉備らを利用した事前調略も順調に実を結び、曹操を完全に追い詰めていたといえます。
普通に考えて、この時点では袁紹の勝利はほぼ疑いない状況だったのです。
では結局何故負けたの?
が、結果は皆様もご存知の通り。
袁紹軍はこの圧倒的優勢を覆され、敗北しました。
その敗北の最大の原因を作ったのは何か?
それはかつて袁紹の悪友でもあったはずの腹心・許攸の裏切りです。
許攸はあろうことか、袁紹軍の最高機密であった烏巣の兵糧集積場の位置を曹操に漏洩。
まだ真偽すら不明な情報で「罠じゃないか」と疑う配下も多かった中、曹操はもうこれしかチャンスはないと悟っており、迷わず捨て身の特攻を仕掛けました。
残り少ない兵の半数余りを奇襲部隊として編成し、曹操自ら指揮を執って烏巣を焼き討ちしたのです。
袁紹も軽騎兵を急行させましたが間に合わず、袁紹は食料補給を断たれ、一気に瓦解しました。
と、ここまで振り返って私は思ったのですが。
袁紹の敗因に「優柔不断」はいうほど関係なくね?
・・・ということです。
袁紹の直接的な敗因は「無理に短期決戦を挑んだ」とか「優柔不断さ」などといった曖昧なものではなく、完全に「許攸の裏切り」がきっかけなのです。
そして袁紹の「真の欠点」はこの「許攸寝返り」を代表とする「人心掌握がイマイチできていない点」なのではないかというのがここからの主張です。
よく「曹操が兵糧を襲った知らせが届いた際、袁紹が中途半端な命令を下した」などと批判もされますが、そこは問題の本質ではない。
そもそも、こういった事態に陥ったのは許攸が最高機密を持ち逃げした挙句、現在交戦中の曹操にバラしてしまったことが原因です。
一応、沮授などは兵糧襲撃を予想しており、警戒するように言っていましたが袁紹には容れられませんでした。
・・・ただ、許攸の寝返りがあったからと言って、袁紹は「統率力がない」というわけではないでしょう。
むしろ、袁紹死後の息子や臣下たちの体たらくを見ると、
袁紹は、放っておけば派閥争いを繰り返す厄介な配下を無理やりその豪腕でまとめるだけのリーダーシップはあった
とも解釈できるわけで。
ただし、袁紹の言動を見ていると「リーダーシップはあるけど人格的にはアレな面もある」というのも確かに感じられます。
- 「一度言い出したことは曲げない、融通が異常なまでにきかない」
- 「逆らった人間には敵意、極端な場合は殺意すら見せる」
という面が、袁紹の各種逸話からはうかがえます。
そういったところから、配下が袁紹に対して日頃から恐怖や不安を抱いていてもおかしくありませんし、そこへ配下同士の足の引っ張り合いも加われば・・・
袁紹の本当の欠点は、ここにあったのではないかと私は考えております。
袁紹の敗因は「職場の人間関係」
許攸の寝返りの原因
まず、致命傷となった許攸の寝返りの「理由」について。
後世の小説などでは、この理由について、
「許都襲撃策」が袁紹に受け入れられず、袁紹の器量の小ささに愛想を尽かしたから・・・
という理由が付けられることも多いです。
それも当然、理由の一つではないとは申しません。
が、正史を読むとそれだけではない一面も見えてきます。
正史の許攸は「袁紹の器の小ささに愛想を尽かした知恵者」などでは決してありません。
彼はあの荀彧をして、
「財貨に貪欲で身持ちの定まらないクズ野郎」
と評された問題児であり、
官渡の戦いの前後、許攸の身内が罪を犯してしまい、あろうことか許攸と仲の悪い審配によって逮捕されるという事件が発生していました。
要するに「財貨に貪欲」と言われた許攸と、その一族の素行の悪さが招いた自業自得によるものと言うほかありません。
このように、官渡の戦いの時点で、許攸はいつ失脚してもおかしくない立場に置かれていました。
ぶっちゃけこの時点で「袁紹の器」量云々を批判する権利は、許攸には全くないわけです。
ただ・・・
結果的に審配がこのタイミングで許攸を追い詰めてしまったことは、最悪の形で裏目に出ることになります。
当然なのですが審配の行動は法的に間違いではありません。むしろ立派に職務を果たしています。
問題は、そのタイミングがよりにもよって官渡決戦の真最中で、しかも許攸もそこに従軍しているという状況であったこと。
荀彧は審配を「我が強く、思慮が浅い」というように評価していますが、確かに審配に融通が欠けていたかもしれません・・・
これから曹操との決戦だ!行くぜーーー!
そんな時に「身持ちの定まらない」しかも「兵糧集積所の場所という機密情報を持っている」ような人間を追い詰めればどうなるか・・・
人が罪を犯しても、その家族まで罪を問われることはない・・・というのはあくまで現代の感覚。
当時は身内が犯した罪も取らされる例は非常に多いです。
中には、謀反を起こす人間を何も知らず「推挙」しただけで罪が及ぶこともありました。
ですが、許攸も最初からいきなり寝返る気はなかったでしょう。
許攸にとっても、瀕死の曹操に降ったところでメリットは薄かったはずです。
曹操が自分をまず信じてくれるか分からないし、自分がもたらした情報をもとに曹操が動く余力があるかも分からない。
許攸も、曹操への寝返りをするまでは(損得も考えて)かなり迷っていたのではないでしょうか。
これまで大した進言もしていなかった許攸が、このタイミングに突如「今許都を攻め、帝を奪取できれば勝てる」と袁紹に進言した事情もなんとなく想像できます。
許攸にしてみれば、この戦いから帰還すればもう失脚は免れないのです。
いっそ曹操に寝返るか・・・でも寝返ったからと言って勝てるかも分からない。
ならば、自分もここで袁紹に一目置かれる功績を立て、罪を帳消しにすることでワンチャン賭けるほかない。
これが袁紹陣営での自分に与えられた最後のチャンス。もう後はない・・・
許攸はおそらくそう考えていたのではないでしょうか?
ですが・・・袁紹は「あっさりと」彼の汚名返上の機会を絶ってしまいます。
「いや、曹操の奴をとっ捕まえるのが先でしょ、普通に考えて」
・・・と。
むろん、この判断自体も決して間違いではなかったと思います。
曹操を官渡城に押し込み、動きを封じているからこその優位を保っている中、いきなり流れを崩すのはかえって危険です。
まして、許都を守る荀彧もむざむざ献帝を袁紹に渡すとは限らず、逃げられでもすれば完全な徒労。
その間に曹操が息を吹き返す危険も考えれば、決して許攸の献策も必勝の策ではなく、極めてギャンブル性が高い。
圧倒的優勢で王手をかけているのに、突然コマを変な方向に動かして王手を解いてしまうようなもの。
だから戦略的に袁紹の決断は間違いではないですし、決断力がどうのというのもズレています。
問題は・・・
袁紹が許攸の策を蹴ったことで、許攸は(自業自得とはいえ)名誉挽回の機会を完全に失い「詰んだ」ということ。
寝返るか、座して失脚するか・・・
または処刑を待つしかないほどに。
もちろん潔く牢に入ったり、死ぬ気なんて更々ない許攸がどうしたかは史実が語る通りです。
つまり・・・許攸の寝返りの理由とは、
- 「家族に連座して失脚しそうヤバイ」
- 「自分の策も却下されもう挽回の機会はない、失脚確定、寝返るしかねぇ」
ということだったのです。
そして、袁紹はそういう許攸の「危険信号」を見抜くことができず、おまけに最高機密を知らせたうえで側に置いてしまったのが結果的には大失敗でした。
最終的に許攸は「もうこれしか活路はねぇ!」とばかり、一か八か曹操に寝返ったのです・・・。
むろんこれだけでは結果論ですし、袁紹殿には申し訳ない気持ちはありますがね。
・・・しかし、これから紹介する別の寝返り組に対しても袁紹は「全く相手の立場を思いやらない」命令で追い詰めてしまっています。
作戦自体は決して間違いではないが・・・
烏巣が攻撃を受けているとの報告を受けた袁紹軍の意見は分かれます。
「官渡城を落とせば曹操は帰る場所がなくなる、烏巣は放置して全力で官渡を落とすべし」と主張するのは郭図ら。
一方で張郃(後々重要になる人物)らは「いや、兵糧を失ってはまずいからすぐ烏巣救援に行くべき。城攻めはそう簡単にはいかない」と進言する。
これを受けた袁紹は、
- 機動力の高い軽騎兵で烏巣救援に向かわせる
- 一方で官渡城も主力軍で攻撃する
という作戦を取ります。
この作戦自体も後世では結果論的に「中途半端」「優柔不断だ」などと言われますが、よくよく考えればこの対応自体も割と理にかなっています。
曹操は急襲部隊で烏巣に突っ込んできたわけですから、何万という大軍をモタモタと救援に向かわせたところで間に合わない可能性が高い。
最悪、兵糧を焼かれた上にまんまと逃げられて終了です。
ならば機動力の高い、しかも城攻めにはあまり役に立たぬであろう軽騎兵を急行させたことはむしろ正しい判断ではないでしょうか?
実際この騎兵はあともう少しの所で曹操の背後を突けるところまで迫ったのです。
許攸の裏切りも恐らく知らず、完全な奇襲を受けたにもかかわらず持ちこたえて見せた烏巣の守将・淳于瓊の奮戦も見逃せません。
袁紹の差し向けた騎兵が、手こずっている曹操の背後を突くまでわずか・・・というところまで袁紹の援軍が接近し、兵は慌てて曹操に知らせます。(もちろん正史の記述です。)
が、曹操は「ここを逃せばもう勝ち目はない」ととっくに覚悟を固めていました。
「敵が背後まできたら言え!」
と一喝し、驚異的な奮戦によってついにギリギリのところで淳于瓊を撃破。兵糧を焼き払うことに成功します。
この戦いは本当に紙一重であり、袁紹は戦術的に取り立てて咎めるべきミスは犯していないとすら言えます。
しかし、大きな人選ミスがありました。
どっちに転んでも「毒饅頭」。そして張郃は寝返りを決意した
ところ変わって、烏巣救援部隊とは別に官渡城攻略に向かった別動隊。
その別動隊の主将の名を張郃といいました。
そう、先ほど「烏巣を救援すべし」と進言した張郃です。
彼はあろうことか、自身の進言とは「逆」の任務に駆り出されていたのでした。
実は、この命令が非常にまずかったのではないかと思います。
・・・これの何がまずかったかと言いますと。
張郃の立場に立って考えてみましょう。
この時点で、張郃が辿る可能性のあるルートとは以下の通り。
- 官渡攻略に成功すれば張郃の武功ではあるが、逆に張郃の烏巣救援策が不要だったことを自ら証明することになる
- 官渡攻略に失敗すれば張郃の進言は正しいが、官渡を落とせない自身の失態にもなるし、手を抜いてると言いがかりをつけられかねない
- 烏巣救援に成功すれば自身の進言は正しかったが、手柄は他人のもの
- 烏巣救援に失敗すれば自身の進言は無駄だったとされ、だったら官渡攻略に全力を注いでいた方がマシだったと責められかねない
要するに、どう転んでも張郃にとっては何らかの「傷」が残ってしまうという状況だったのです。
それでも戦にさえ勝てれば「まだマシ」・・・のはずでした。
しかし史実で辿ったルートはご存知の通り。
2、官渡攻略は難航し
4、烏巣も陥落してしまった
つまり、端的に言って張郃は
- 「官渡攻略の失敗の責任を問われ」
- 「無駄な作戦で兵を分散させたと言いがかりをつけられかねない」
=「完全に詰んだ」という状況だったのです。
責任を負わされてしまうどころか、即粛清されてもおかしくない。
張郃も「官渡城攻撃に手を抜いていた」というわけでは決してなかったはずです。
理不尽な命令を受けていたとはいえ、袁紹軍はほぼ勝確の状態、まして負ければ彼自身の責任や能力を問われるとあれば、手を抜く理由もありません。
が、結果的に彼は曹操の留守を預かっていた曹洪らの奮戦で官渡城を落とすことはできませんでした。
全軍で攻めてもなかなか落ちなかった官渡なのですから、致し方なし。
まして城攻めとは「10倍の兵力差があってようやく万全」と言われるほど難しいものなのですから。
しかし、いかに弁明したとしても結果は結果。
いかに張郃が奮戦したと主張しても「袁紹様の命令を不服に思って手を抜いた」と誰かに讒言でもされれば=死なのが袁紹軍です。
袁紹にしてみれば、あんな命令を下したのは敢えて張郃を追い込んで「官渡を落とすしかない」と奮起させる狙いもあったのかもしれません。
ですが、袁紹が下した命令は結果的に張郃をどん底まで追い詰めてしまいました。
そもそも「頑張るしかない」は、張郃が袁紹軍に永久に忠誠を誓う前提での話。
「官渡を落とす」以外にも、張郃にはもう一つ選択肢があったことを袁紹は忘れていたのです。
そして、結果張郃が下した決断とは、
「敵である曹操に降ってしまおう」
ということなのでした。
張郃は同じく官渡攻撃を命じられていた高覧とともに曹操に降伏。
兵糧焼失、および前線部隊が崩壊した袁紹軍の敗北は決定的となりました。
・・・と、ご覧のように。
袁紹の敗因は「優柔不断さ」などでは決してなく。
全ては袁紹のいまいち他人の心情を察しない性質と、普段からあった配下同士の足の引っ張り合い・それに端を発した裏切りが原因となっているのです。
正史から垣間見える、袁紹の「冷酷」さ
これまで述べてきたように、袁紹には優柔不断さよりも、むしろ他人の心情や機微を察しない、というか察しようともしていない傾向があります。
そんな袁紹のプライベートな人格についての史料は少ないです。
「陽気なおじさん」的なエピソードが多数伝わる曹操に比べ、袁紹がプライベートでどういう性格の持ち主だったかを伺える史料はほとんどない。
「花嫁強奪」のエピソードなどいい加減なものは残っていますが、それも袁紹の性格や人物像を窺い知れるほどではありません。
唯一、袁紹の人柄について陳寿が言及しているのが「鷹揚に構え、喜怒哀楽を表に出さなかった」という記述だけ。
これだけ見ると名家の育ちらしい、穏やかな人物という印象も抱くでしょう。
その一方で、若い頃の袁紹はヤンキーをしていたかと思えば急に親孝行な振舞いを見せたり、見どころのある人物とは謙虚に接して派閥を作るなど、不可思議な行動が多いです。
そして、乱世に身を投じてからの袁紹は「冷血」とすら言えるほど恐ろしい一面を剝き出しにしていきます。
・宦官二千名あまりを、罪の有無にかかわらず、髭がないために誤殺されたも含めて問答無用の皆殺し。
・袁紹を利用するつもりこそあれ殺すつもりはなかった董卓に対し、都に残る一族郎党を置き去りにして単身脱出、断交を宣言。それでも董卓は袁紹と和解しようと渤海郡太守の座まで与えたのに反董卓連合の旗印となり敵対。結果、激怒した董卓によって都の袁一族は皆殺し。
・自分のために功績を立てた人物や旧友であっても、自身に逆らうorその予兆があれば即座に殺害を命じる。
袁紹はそもそも「人命」「感情」というものを軽視しているのではないかとすら思えるほどです。
特に3つ目についてはまだ語っていなかったので、袁紹の恐ろしさを垣間見えるエピソードをいくつかご紹介しましょう。
袁紹の被害者一覧
麹義事件
袁紹が粛清した人物としてまず第一に挙げられるのが彼。
麹義は界橋の戦いの英雄であり、また、公孫瓚の苦し紛れの奇襲で危機に陥った袁紹を寸でのところで救いました。いわば命の恩人でもあります。
・・・が、「武功を鼻にかけるようになったため」彼は突如粛清されてしまいます。
これが真実であったのか、麹義を妬む誰かの讒言であったのかは分かりません。
ですが、そういった事実関係もろくに精査されたかもわからないまま彼はあっさりと始末されています。
袁紹の快進撃を支え、命まで救った人物としてはあまりに容赦のない処断でした。
呂布暗殺未遂事件
あの呂布も、袁紹に消されかけた被害者の一人です。
董卓を殺害したあとの呂布が行き場を失ったとき、一時的に頼った群雄の一人が袁紹でした。
ちょうど袁紹も河北で暴れていた黒山賊に手を焼いていたところなので、呂布を一種の傭兵部隊として雇い討伐にあたらせます。
ここで呂布はわずかな手勢で万に達する大軍を果敢に攻め立て、見事撃破する大功を立てます。
ところが、物資が不足していたという理由で、短気な呂布は袁紹の陣営から略奪を行うなどの暴挙に出ます。
まあ言ってしまえばいきなり略奪行為に訴えた呂布が悪いのですが、袁紹はあっさりと「あっそう、いうこと聞かないなら殺してしまえホトトギス。」とばかり、即・呂布暗殺の刺客を送り込みます。
この早すぎる粛清命令には部下もドン引きし「呂布は物資の供与を要求してるだけですし、そこまでしなくていいのでは!?」と引き止めたほどでした。
呂布は機転により袁紹の刺客から何とか逃亡しますが、ここで呂布が袁紹に消されていればその後の歴史は大きく変わったかもしれません・・・
臧洪事件
もう一つ、マイナーですが臧洪の一件も紹介しておきましょう。
臧洪はあまり知られていませんが、正史で反董卓連合が結成された際、その宣誓を読み上げた人物として有名でした。
彼は袁紹の友人・張邈の弟である張超と大親友で、臧洪にとっては自身を推挙してくれた大恩人でもあり、その絆は深いものだったと伝わります。
しかし臧洪は袁紹の配下として、張超ははるか南の広陵の太守を務め長い間離れ離れになっていました。
そんな中、兄の張邈が呂布と手を結んで曹操に反逆すると、張超もまた兄に従い呂布に味方します。しかし、ご存じの通り呂布は曹操に敗れて逃走。
張邈は袁術に助けを求めに行く矢先に部下に殺され、兄と離れ離れになってしまった張超は籠城して曹操軍と対峙します。
親友の危機。
それを知った臧洪は自らの兵をまとめ、裸足で袁紹の前に走り出て「張超を救援させてほしい」と願い出ます。
が、袁紹はこれを許さなかったため張超は奮戦むなしく敗死。
絶望した臧洪は袁紹との絶交を宣言し、袁紹の説得にも耳を貸さなかったため居城を包囲され、ついに捕らえられます。
これまでの実績や才能に免じて袁紹も彼を許すつもりではいたようですが、事ここに至る経緯を考えれば臧洪にとってはあまりにも酷でしょう。
結局臧洪が袁紹に降ることはなく、彼もまた袁紹に殺されてしまいました。
また、臧洪の書生で同郷の馴染みのあった陳容という人物が臧洪の処刑に反対して袁紹を罵ったため、彼もまとめて処刑されてしまいました。
人々は「今日は烈士が2人も死んでしまった」と嘆いたと言われます。
・・・むろん、この件は臧洪の行動にも疑問符が付きますし、実際後世による批判の声もあります。(友も救えず、私を捨てて君主に尽くすことも出来ずにコイツは何がしたかったねん的な)
また、そもそも袁紹は曹操と同盟中であり、その曹操を裏切って呂布に加担した張兄弟を救う義理は全くないですし、曹操の味方をするのが当然。
袁紹の冷静さをむしろ褒めるべきなのか、あるいはもう少し何とかうまく折り合いが付く解決策はなかったのか・・・確かに難しいところです。
張邈事件
さっき名前を出しましたが袁紹の友であった張邈も、些細なことがきっかけで袁紹に殺されかけたことがあります。
張邈は若い頃から気前がよく、困っている者を救うための散財を惜しまなかった好人物として名高く、曹操や袁紹とは昔からの親友です。
が・・・反董卓連合結成後。
具体的には不明ですが、袁紹は「驕った振る舞い」を見せたといいます。
それを友人として張邈が諫めたところ、袁紹の不興を買って殺されそうになりました。
友を諫めただけで。
その場は曹操が取り成したため収まりましたが、親友でも自分に逆らう者は容赦なく殺そうとする、袁紹の物騒な一面が垣間見えます。
なお、前述の通り張邈はその後曹操に対しても反逆するわけですが、それは張邈が袁紹に殺されかけた呂布を匿い親交を結んだため、袁紹から目を付けられたことに端を発します。
妄想ですが、張邈が「袁紹を諫めた」というのは、あるいは呂布をいきなり殺そうとした件であったのかも知れません
なにしろ曹操は袁紹派閥として動いているため、曹操が袁紹の命を重視して自分を殺すのではないか・・・と猜疑心に駆られたわけです。
曹操も曹操で徐州で大虐殺を敢行した後だったため、袁紹に加え、曹操のことも信用できなくなっていたのでしょう。
呂布に勝手に接近したこともあって「自業自得」と思わなくもないですが、それも張邈が「旧友だった曹操も袁紹も信用できない、乱世怖すぎる」という不安感から来る行動だったのかも知れません。
結局呂布は敗走し袁術に助けを求めに赴く際、配下に裏切られて命を落としました。
田豊事件
袁紹に粛清された人物として、一番有名なのが田豊でしょう。
彼は若い頃から才覚に優れ、袁紹の参謀として重用されていました。
しかし荀彧が指摘した通り「剛直で上司に逆らう」という性格は、自分に意見したり、メンツを潰すような相手に容赦のない袁紹とは相性が悪かったのでしょうか。
官渡の戦い前後では、許都襲撃、持久策、出兵反対などことごとく袁紹と意見を対立させてしまい、投獄されてしまいました。
袁紹が官渡で敗北した後、獄中でそれを知った田豊のエピソードはご存じの方も多いでしょう。
「この敗戦であなたが正しかったことが証明されたのですから、今後はきっと重用されます」
・・・と、ある者が田豊を慰めたところ、
「いいや、むしろ袁紹様が戦に勝っていれば私も命を全うできただろうが、敗れたからには私の命も危ういだろう」
と逆の予想をし、結果その通りになってしまいました・・・。
よく分からないのが、袁紹は敗戦当初、反省したそぶりを見せていたのです。
なのに、いざ田豊と仲の悪い逢紀が「あいつ、袁紹様が負けたと聞いて手を打って喜んでましたよ」というあからさまな讒言をすると即田豊を処刑してしまったことです。
色々端折られて書かれているせいもあるでしょうが、こういった行動を見ていると、袁紹の心の中がどうなっているのかわかりません・・・
独裁者・袁紹の弊害がことごとく出てしまった官渡
とまあ・・・そんな感じで袁紹は普段から部下を粛清しまくっていました。
自分のメンツを潰す相手にはたとえ親友だった相手ですら殺意マンマン。
「泣かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
という句が似合うのは、織田信長公ではなくむしろ袁紹ではないかと思うほど。
一方で、彼は織田信長公のように分かりやすくキレやすいタイプではなく、「外面は喜怒哀楽を表に出さず、鷹揚に振舞っていた」というのだからある意味一番恐ろしい人種です。
そんな袁紹を陳寿は、「内心は人を疑い、妬み、憎む危険な性質を抱えていた」と評しています。
最後に裏切った許攸は、袁紹の旧友の一人でしたが、彼は旗揚げ当初から袁紹のやり方を見てきたことでしょう。
その中で、袁紹が功臣・親友ですら容赦なく処刑・使い捨てにしてきた有様は嫌というほど見せつけられたはず。
むろん許攸の罪自体は本人とその家族の自業自得ではありますが、彼が普段から袁紹に恐れを抱いていた可能性は十分あります。
また袁紹軍は内部で配下同士が常に対立し、いがみ合い、いつか蹴落としてやろうとお互いけん制しあっている状態。
こういう組織は、うまくそのエネルギーが外へ向かえば競争と成長を促します。
しかし、官渡では袁紹軍という超・競争的組織の「弊害」がすべて内へ向かってしまい、最悪の形で裏目ってしまったと言えるのではないでしょうか。
補足:曹操軍も瓦解の危機はあった
さて、ここまで袁紹のミスをなかば結果論的に批判してきましたが・・・
もちろん彼の配下が「うまく」敵にエネルギーを向けていれば、勝利していた可能性はもちろんあります。
それを言ったら、曹操軍も(戦後判明したように)袁紹への内通を企てていた人間が相当数いたわけで、曹操が袁紹より圧倒的に人心掌握に長けていた・・・というのもまた一方的すぎます。
これまで述べたように、曹操にとっても官渡の戦いは薄氷の勝利ともいうべきものでした。
むしろ袁紹軍で起こった雪崩的な裏切りが、何か一つ間違えば曹操側に起こっていても何も不思議はなかったのです。
そうなれば曹操は間違いなく勢力を大きく後退させて再起不能になるか、最悪滅亡していたでしょう。
用兵の天才といわれる曹操でも手痛い敗戦はいくつも喫していますし、無敵ではありません。
曹操本人が死にかけたことも何度かあります。
それでも、曹操の敗戦のほとんどは「数的な圧倒的優勢からくる油断」が原因であり、負けたとしても戦力的にはまだ余裕のある戦いがほとんどでした。
しかし「曹操が油断なく全身全霊を出したにも関わらず、本気で追い詰められ、勢力そのものの存亡をかけた戦いを強いられた」というのはこの官渡の戦いくらいなのではないでしょうか。
「曹操をもっとも追い詰めた人物」を挙げると、呂布や周瑜をはじめ様々な人物が挙げられるでしょうが、私はこの袁紹を挙げたいと思います。
運や、普段の組織内の歪みはあったとはいえ、袁紹は曹操の「宿敵」にふさわしい戦いぶりと存在感を示しました。
前哨戦では高度な外交戦を仕掛け、実戦においても先手を奪われながらも即座に巻き返し逆に追い込むなど、袁紹が決して並の群雄ではなかったことが伺えるはずです。
まとめ:「第二の董卓」袁紹?
長くなりましたが、そろそろ袁紹の個人評に戻って〆に入りましょうか。
一般では保守的なイメージに見られる袁紹ですが、むしろ彼は現漢王室に見切りをつけ、別の「実力と実績のある」皇帝を立てようとした「後漢でも最左翼」といってもよい人物だったのです。
そして、ただ家柄に乗っかるだけの無能ではなく、実力もあります。
ほぼ徒手空拳で都を脱しながら、そこから河北を統一した手腕は同じく都を単身脱して旗揚げした曹操に通じるところを感じられます。
決断力についても、長い間後漢王朝の問題となっていた宦官の大粛清を強行したり結果的には裏目ったけど、河北統一で見せた鮮やかな用兵を見ればむしろ「迅速果断」「性急」とすら言えるほどではないでしょうか。
統治能力に対しても、統治が難しい州も含めて彼の存命中は安定した統治を行っており、袁紹を嫌って離れた郭嘉すら遠回しにその善政ぶりを認めるような言葉を残しています。
また、配下の統制についても袁紹個人はむしろ無駄に我の強い各派閥をうまく競わせ、まとめていた・・・と言えるのではないでしょうか。
派閥対立は、袁紹だけでなく曹操や孫権らも散々悩まされてきた問題ですし、袁紹はむしろその対立すら利用していた節もあります。
たとえば、袁紹は配下同士をいがみ合わせることで、袁紹に異を唱える人間を「こいつらの意見でもあるから」という名目で効率的に「口封じ」しています。
配下同士が対立するのはもちろん良くはありませんが、こういう政治的な利用方法を考えれば、派閥対立も「独裁者・袁紹」には何かと便利だったでしょう。
その一方、そういっためんどくさい配下をまとめるには恐怖政治というか、ワンマン政治にならざるを得なかったのかも知れません。
配下に異常に厳しく、功臣であっても些細な罪や疑いで粛清し、知ってか知らずか追い詰めることもしばしば。
結局はそれが官渡の敗因につながっています。
また袁紹は「優柔不断」では決してないものの、
- 異様なまでに自分の判断に自信を持っていて、それゆえの頑固さが目立つ
・・・という大きな性格的欠点が見られました。
ひょっとしたらそういった性質が「間違った方針の修正を遅らせる」「その遅れがモタモタ=優柔不断」とみなされたのかもしれません。
また、
- 自分に反対する人間を異常なまでに敵視する
という性格は、許攸の裏切りや田豊の処刑をはじめ、多くの人材を失わせる要因にもなりました。
いずれにせよ袁紹が当代きっての人物だったことは間違いありませんし、決して「優柔不断」とも言えません。
むしろその行動や、早くから天下を狙っていたその思想から見ても
「乱世の梟雄」
としての風格はかなり持ち合わせていた人物だったように私には思えますが、いかが思われるでしょうか。
余談ですが。
袁紹について、曹操の最初の・そして永遠の友(色んな意味で)となった鮑信は袁紹をこう批判しています。
「袁本初は、第二の董卓になりつつある」
・・・確かに、彼が目指していた
「皇帝の首を挿げ替えてしまえばええやん」
という方策は、実際にやったかどうかの違いはあれど、董卓とそっくりと言えなくもありません。
なかなか的を射た評価ではないでしょうか・・・。
袁紹が曹操を破って都を制圧したら、果たして天下の情勢、そして献帝の命運がどうなっていたか・・・興味深いところではあります。
袁紹の死とその後の歴史
袁紹の存命中、曹操は河北に侵攻することはできませんでした。
むしろ袁紹は河北で発生した反乱をことごとく制圧して見せ、まだまだ力のあるところを示しています。
が、袁紹は202年に急死。袁術同様、吐血しながらの最期だったと言われます。
文字通り袁家の大黒柱であった袁紹の死は、袁家の滅亡とほぼイコールでした。
袁紹は生前、彼個人の力によってソリの合わない配下をも強引にまとめ、なんとか手綱を握りながら勢力を拡大してきました。
しかし、袁紹が後継者を定めないまま死ぬと「重石」が外れ、元々仲の悪かった配下達は、息子達の後継争いを利用しててんやわんやの内紛に突入してしまいます。
袁家の後継ぎは長男・袁譚とみられていましたが、一方で袁紹からの寵愛があったという三男・袁尚を審配や逢紀らが擁立し、袁譚派と激しく対立。
後継者争いの裏には「袁紹の死を機に自身の権力強化とライバルの一掃をはかる、袁家配下達の代理戦争」という側面もありました。
一応、曹操という共通の敵に対しては両派が手を組んで戦って、曹操を撃退することもありましたので、このあたりは袁紹が遺した「底力」を感じます。
しかし、曹操が「じゃあ無理に攻めず、逆にほっとけば勝手に内紛して自滅すんじゃね?」といういわゆる「隔岸観火」作戦に切り替えると予想通り袁譚・袁尚両派は潰しあい、どんどん国力を磨り潰していきます。
そして袁家は滅亡の坂を転がり落ちていくことになりました・・・。
こうして見ると「袁紹軍」という組織は、一代の英雄・袁紹が乱世に乗じて様々な派閥から人材を引っ張り上げ、強引にまとめて勢力拡大に邁進したものの内部崩壊によって衰え、創業者が死ぬと完全に求心力を失って滅亡・・・という流れで、
まるで一代で成り上がって、次代で呆気なく求心力を失って倒産するベンチャー企業のような哀愁を感じます。
むろん、まだこれから組織を固めていく「半ば」だったこともあるでしょうが。
もし袁紹が勝っていれば、彼らがどんな政治制度を構築し、組織改編を行っていったか、興味深いところではあります。
なお、袁紹軍はおおよそ仕える人間の目線では絶対入りたくないようなブラック組織ではありましたが、民にとっては善政を施す良い統治者であったようです。
曹操が河北を支配した後、郭嘉や荀攸は「袁紹は寛大をもって民や異民族に恩を施し、心服させてきた」と袁紹の統治を遠回しとはいえ褒めていますし、中には晋の時代になっても袁家の治世を懐かしむ声もあったと言われます。
華北争奪戦に勝った曹操はその後、もともとの中原に加えて袁紹が育て上げた豊かな冀州をはじめとする河北四州を「そっくりそのまま」総獲りすることに成功。
もはや国力だけで言えば天下の半分以上を制している状態となり、曹操の天下統一はほぼ目前になった・・・
しかし!・・・というのはまた別のお話。
それでは、これで「袁紹」の紹介を終えたいと思います。
少しでも「袁紹」という人物のスケールの大きさと、群雄割拠時代における「重要度」が伝われば幸いです。
ここまで読んでくださった貴方に最大限の感謝を。
ありがとうございました!
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