魏延:反骨と呼ばれた蜀最後の猛将。悲劇的な最期の真相は?

 

暇孔明です。

本日は、「蜀漢最後の猛将」ともいえる

魏延ぎえん(字・文長)

をご紹介していきましょう。

 

三国志で「魏延」と申しますと、正直あまり良いイメージは持てない方も多いのではないでしょうか?

彼は「三国志演義」の中で「正義」として描かれる蜀漢に仕え、相当の活躍をした武将です。

・・・にもかかわらず、魏延は物語の中では

  • 主君の首を手土産に投降する不忠者
  • 人相が反骨で裏切りそう
  • 後半の主役・諸葛亮の意見に逆らい続ける性悪
  • あげく諸葛亮死後間もないという時期に反乱を起こして斬られる
  • 蜀の人物のくせに魏という姓で色々紛らわしい

 

などなど、明らかに「悪役」「嫌われ役」のイメージが強い人物といえます。

しかしこの記事のタイトルで示した通り、私は魏延こそ

「蜀最後の猛将」

として、最大限評価すべきだと思うのです。

 

暇「孔明」なんて名乗っているくせに魏延を擁護するなどけしからん!という方もいらっしゃるでしょうが正史ではまあそこまで仲悪かったわけでもないのでノーカン(笑)

正史での彼は間違いなく蜀、そして当代きっての猛将の一人です。

なんせ、のちに姜維の天敵となる郭淮やあの司馬懿ですらも魏延に土を付けられたことがあります。

 

演義での劉表時代・韓玄時代の「主人の首を手土産に劉備に取り入ろうとする」悪役っぽい行為も、あくまで創作の話。

また、正史では決して諸葛亮との仲も険悪だったわけではなく、魏延自身も諸葛亮の与えた任務は忠実に遂行し続けています。

我が強く、時には諸葛亮に対しても悪態をつくこともありましたが、それは諸葛亮が特に嫌いだったというわけではなく、本人の性格によるものと解釈できる範囲です。

というか正史だと楊儀の方がよっぽど仲悪い

今日はそんな魏延の生涯を追いながら、彼が決してただの悪役ではない、優れた武将だったことを知っていただければ幸いです。

 

魏延の生涯と概略

プロフィール

姓名 魏延
文長
出身 不詳
荊州義陽郡?
生没年 ???~234年
主君 ?→劉備→劉禅

正史略歴

正史における魏延の前半生はよくわかっていない。

正史で魏延の名が登場し始めるのは、劉備入蜀の時期である。
(劉表や韓玄に仕えていたのは演義での設定。)

劉備からは荊州以来の部下として可愛がられ、魏延もまたその期待に応えて順調に武功を挙げて出世。

219年、漢中争奪戦に勝利した劉備が漢中王に即位すると、劉備の腹心ともいえる張飛を差し置いて漢中太守に抜擢される。

その際の「曹操が兵を率いてきたら全力で守り切って見せる、もし曹操が配下の武将を寄こしてこようものなら、たとえ10万だろうが飲み込んで見せる」と語った言葉は彼の名言・・・だと思う。多分。

劉備が亡くなって諸葛亮が蜀漢の全権を握ることになっても変わらず重用され、北伐でも常に蜀軍の中核を担い続けた。

第一次北伐ではいわゆる「長安急襲策(諸説あり)」を諸葛亮に進言したといわれるが、これは受け入れられなかった。

蜀軍が北伐に苦戦し一進一退の攻防を繰り返す中、魏延のみは常に魏軍を破り続け、武功をいくつも打ち立てている。

しかし性格面には大いに問題があり、その勇猛さと誇り高い性格ゆえに楊儀らと衝突することもしばしば。

諸葛亮との不和のイメージが強いが、実は諸葛亮の腹心であった楊儀との仲の方が特に険悪で、魏延はよく楊儀を泣かせていた(※そのまんまの意味です)とも。

問題児ではあったがそれでも史実の諸葛亮は魏延を重用し、魏延もそれによく応えていたといえるが、諸葛亮の死後に魏延の運命は暗転する。

自分以外に魏延は制御しきれないと考えた諸葛亮は「魏延が撤退命令に従わなければ置き去りにせよ」と遺言。

予想通り、北伐続行を主張して譲らない魏延は孤立。

苦し紛れに蜀軍の撤退を妨害したうえで楊儀らの「罪」を皇帝劉禅のいる本国へ告発するも、本国からは完全に反逆行為とみなされ討伐されてしまった。

陳寿は彼の「反乱」についてある程度同情的な見解を示しながらも、「身を滅ぼす羽目になったのは、自業自得と言えば自業自得」との旨で締めくくっている。

魏延と他の人物との関係

劉備

みんなの玄徳様。

魏延を見出した恩人。

兄弟同然の張飛を差し置いて蜀の守りの要・漢中を任せるなど破格の信任を示した。

諸葛亮

劉備死後に蜀漢の実質的な指導者として、魏に対する北伐を敢行。

魏延の長安奇襲策(作戦内容については異説あり)を蹴ったエピソードなどについてはしばしば議論の的になる。

すっかり魏延との仲は険悪というイメージがついているが、正史ではそこまで仲が悪いわけではなかったらしい。

ただし、いわゆる「長安奇襲策」を毎回(一度だけでなく何度も進言していたらしい)却下された際は総司令官の諸葛亮を「臆病」と批判しているため、問題行動であることに変わりはない。

諸葛亮も魏延を相変わらず重用しつつも「自分が死んだ後に魏延は制御できなくなる」とも考えており、実際その通りとなった。

楊儀

魏延と仲が悪いといえるのはむしろこの人物。

事務処理の才「は」諸葛亮にたいそう可愛がられていた。

性格は正直言ってアレで、才能を鼻にかけた言動をするだけでなく、自分が「格下」と見た相手を妬んで誹謗中傷することも多く、魏延とどっこいどっこいか、それ以上に問題ある人物。

そのくせ、いざ軍議で魏延と衝突すると剣を突き付けられて泣かされる、魏延が死んだあと魏延の首を踏みつけて罵るなど、小物臭い逸話が多数残る。

諸葛亮も楊儀の実務能力は買っていたものの、限界もとっくに見極めていたらしく、後継者には楊儀ではなく楊儀が「格下」と見下していた蔣琬を指名する。

自身こそが諸葛亮の後継者だと自負していた楊儀はそれに駄々をこね、しまいには「魏に降っておけばよかった」などと危険な発言をして流刑に。

それでも懲りずに自分を差し置いて昇進した蜀首脳への誹謗中傷を繰り返したため拘束されそうになり、ついには自害してしまった。口悪い割には豆腐メンタルである・・・

皮肉にも、仲の悪い魏延と同じように無残な最期を遂げることとなった。

馬岱

ここにいるぞ!

・・・と実際言ったかは分からないが、魏延を追撃して引導を渡したのは正史でも演義でも彼の役目。

諸葛亮の密命でスパイとして魏延の副将を装ったり、ここにいるぞ!の流れをやったのは演義、および横山三国志でのくだり。

かの馬超の一族であり、地味ながら蜀軍の北伐に参加してそれなりに活動していた。

費禕

オンオフを切り替える名人。

政務・軍務と遊びはもちろん調整能力にも優れ、諸葛亮が魏延や楊儀を使いこなせたのは彼の仲介によるものが大きいと言われる。

一方、魏延・楊儀両名の失脚に関わることになってしまい、俗にいう中間管理職を体現した人物。

「蔣琬の後は費禕」と諸葛亮に遺言されており、実際あまり活躍できないまま亡くなった蔣琬の後を思ったより早く継ぐことに。

碁を打ちながら軍を指揮して余裕たっぷりで魏軍を破るなど「諸葛亮のご指名」に恥じない才覚と活躍を見せつける。

・・・が、ある正月の宴席で魏から偽装投降してきた刺客に暗殺されてしまった。

姜維のことを高く評価していた人物でもある。

趙直

魏延から「角が生える夢」について相談を受けた夢占いコーナーの人。

「角」という字は「刀」を「用」いると書くので不吉な意味=(首が飛ぶ)だったが、さすがに死亡フラグとは正直に言えないので「吉夢」と嘘をついた。

 

『三国志演義』の魏延

劉表の配下として初登場。

この頃から劉備に好意を抱いており、劉表死後、劉備を疎んじる蔡瑁らが劉備を追い払おうとするとこれに激怒。

逆に劉備を迎え入れようとするが文聘らの妨害で果たせず、そのまま荊州四英傑の一人韓玄を頼る。

のちに韓玄が劉備の侵攻を受けると、ここぞとばかり韓玄を斬って劉備に投降。

この時の行動が「主君を売った」として諸葛亮からは嫌われ、あげく「反骨の相=裏切る奴のツラ」とディスられ因縁が生まれる。

さすがに演義だけあって武勇面ではかなりいい扱いを受けており、漢中争奪戦では狙撃で曹操の前歯をへし折って半殺しにするなど大活躍。

しかし街亭の戦いでは仲の悪い諸葛亮の弟子である登山家・馬謖の救援を故意にサボるなど、悪役ムーブもしばしば見せている。

一方で諸葛亮によって「わざと敗走させられる」「敵軍を挑発させられる(しかも大抵乗ってこない)」など損な役回りを押し付けられまくる描写がやたら多い。

最終的に諸葛亮の延命祈祷中に部屋に押し入って儀式のロウソクを消してしまい、それが(結果的に)諸葛亮にトドメを刺す・・・という完璧な憎まれ役を演じる羽目に。

なお演義のバージョンによっては、魏延を排除したい諸葛亮の計略よって司馬懿もろとも焼き殺されそうになる。

そりゃあ魏延でなくても恨むわ!

諸葛亮が死ぬと史実同様暴走するが、事前に魏延の反逆を予測していた諸葛亮の策を受けた後継者たちの手によって追い詰められる。

最期は有名な、

魏延「わしを殺せるものがおるか!」→馬岱「ここにいるぞ!」

という有名なやりとりコントを繰り広げた末に、諸葛亮から密命を受けて魏延の腹心として取り入っていた馬岱に斬られた。

 

その他創作での魏延

横山光輝さんの漫画「三国志」では有名な「わしを殺せるものが(ry」「ここに(ry」のシーンを演じた。

三国無双では、「どこの部族の方ですか?」とツッコミたくなるような謎マスクを被り、カタコトで喋る変質者として描かれる。

一方で正史も取り入れた本シリーズでは「劉備への忠誠心」が強調されているなど、黄泉にいる魏延ご本人の感想はともかく、まあまあ扱いは良い方。

三国志演義をもとにした中華ドラマ「Three kingdom」では非常にダンディーな男優さん(ワン・シンジュンさん)が演じており、渋いイケオジ。

さらに日本語吹き替えは、多数の洋画吹き替えやアニメ出演で有名な大塚芳忠さんであり、さらに渋格好よさに磨きがかかっている。

韓玄の首を手土産に劉備に帰順し、諸葛亮から警戒されるのは相変わらずであるものの、演義原作で見せた悪役ムーブはかなり減っている。

落鳳坡ではいちはやく伏兵を察知し、龐統に「一時退くべき」と忠告する、罠にかかって窮地に陥るも敵のスパイを一撃で射殺し、援軍もあったものの司馬懿軍に大損害を与えて撤退に成功するなど、将としての有能さを見せるのはもちろん。

さらの原作では見殺しにした馬謖に対しても仲間意識を持っており、馬謖の処刑に際して涙ぐみながら別れの盃を渡す、やりきれない感情を虚空にぶつけるように叫びながら刑執行を命じる・・・などの一面も見せた。

・・・が、武功を立てても諸葛亮からはあからさまにシカトされ、功績は軽く流される割に失敗したときに限って諸葛亮の注目度MAXになり、某KDA並にとりあえず斬られそうになるなどやっぱり可哀想な扱い。

そんな鬱憤が溜まっていたのか、最後はそれまでの描写は何だったのかと思うほどあっさり演義原作モードにチェンジ。

「ここにいるぞ!」のコントをする間もなく、諸葛亮が死んだ直後の軍議で馬岱にあっさり斬られてしまった。

だが諸葛亮との最後の会話では「芝居」だけとも言い切れない、本心から諸葛亮の身を案じ、その遺志を継ごうと頑張っていたようにも解釈できる。(遺志を継がせるなどと嘘をつき、魏延を試す諸葛亮もなかなか意地悪・・・)

最後の猛将・魏延の人物像・・・「反骨」は創作

実際のところ、昔の私は魏延という人物にそこまで興味があったわけではありません。

しかし、彼が辿った残酷な運命・・・有能でありながら最後は孤立し、後世からも悪役扱いされるなど微妙な不幸体質。

どこか我々現代人の同情心や哀愁をそそるキャラクター性。

大人になった私も、そんな魏延の人物にだんだんと興味を抱いていくようになりました。

三国志では諸葛亮や陸遜など、「逆(=ネガティブに)再評価」される人物がしばしばいる中、魏延は間違いなく純粋な意味での「再評価」を受けてきた人物と言えるでしょう。

 

劉備の忠実な武官として

魏延は入蜀時代前後から一貫して劉備に仕え続け、劉備もまた魏延の才能を高く評価し、最終的にはあの趙雲よりも高位の将軍に昇進しています。

演義では劉表死後、劉備を追い払おうとする蔡瑁を血祭りにあげて劉備を迎え入れよう策動したり、韓玄を斬ってその首を手土産に劉備に降るなど、劉備ラブながらもダーティーな面をチラつかせる人物として描かれています。

極めつけに、魏延の顔を一目見た諸葛亮から「こいつ人相がいかにも裏切る奴の顔だからさっさと斬れ(反骨の相)」と言われてしまったわけですが・・・

 

しかし、先ほど述べた通り、魏延の名が史書に登場するのは劉備の入蜀(211年ごろ)時代。

下手をすれば、蜀将の中ではかなり若手だった可能性すらあります。(そもそも劉備をはじめだいぶ蜀軍全体が高齢化していたため、あくまで相対的にではありますが)

それ以前の彼の経歴は分かっていませんし、だれかを裏切った、裏切ろうとしたなどの記述も特にありません。

最期ですら、彼は別に反逆や寝返りの意志はなく、単に政敵である楊儀を除こうとしただけだったのではないかという説もあります。

そしてそれはほかでもない「三国志」の著者・陳寿も認めているのです。

そもそも陳寿という人物は、基本的に私情や憶測を書き記すことはありません。

しかし魏延事件に関しては「思うに魏延の意図はこういうもので、反逆を企てたわけじゃないんじゃね?」とわざわざ書き残しているのはやはり何らしら思う所があったのでしょう。

・・・それはともかくとして、正史の彼は冒頭で紹介した通り、「少々性格に難」はありましたが、決して「変節漢」ではないことが分かるはずです。

 

劣勢の蜀軍にあって、圧倒的な任務遂行率

魏延は決して武勇を振るうだけの荒くれにあらず。

陳寿のあまりに簡潔な記述を拾い集めるだけでも、魏延の指揮官としての優秀さがうかがえます。

劉備から(張飛を差し置いて)漢中太守に抜擢されてのち、(魏の大規模侵攻もなかったとはいえ)北伐開始まで見事その任を果たし、

一連の北伐中、諸葛亮から与えられた任務はすべてそつなくこなし、目立った敗戦もありません。

のちに北伐に挑む姜維の天敵となる郭淮や、あの司馬懿ですら魏延に一度打ち破られているのです。

  • 230年、曹真が漢中攻略に失敗した機に乗じて諸葛亮は魏領西へ侵攻。魏延は呉懿とともに進軍し、魏の費耀・郭淮を大いに打ち破る
  • 231年、蜀漢軍が魏の祁山を包囲したので、祁山の包囲を解くために司馬懿が諸葛亮を、張郃が王平を攻めたが、魏延・呉班・高翔は司馬懿を大いに撃退する

演義ではしばしば猪突して敵の罠にハメられることが多いですが、正史の魏延はいたってクールな仕事人。

蜀軍きっての高い任務遂行能力を誇っていました。

魏延が単なる前のめりな脳筋ではなく一人の将としても優れた人物であったことの証でしょう。

彼が活躍した時期は、関羽や張飛などが次々この世を去っていくという、蜀にとっては非常に厳しい時期でした。

劉備も死去し、その少し前には黄忠も亡くなっています。

さらに魏延が本格的に活躍を始めた第一次北伐前後には趙雲や馬超も亡くなり、蜀に残された「猛将」と呼べる人物は、もはや魏延しかいなくなっていました・・・。

そんな圧倒的斜陽の中、命じられた戦いにはほぼ全て勝利を収めてきた魏延。

彼の軍事能力は張飛や趙雲はおろか、関羽とも遜色がないものと言えるのではないでしょうか?

魏延こそまさに「蜀最後の猛将」と呼んでよいでしょう。

劉備は、人の才能を見抜くことにかけては間違いなく天才でした。

そんな劉備が、最古参の張飛や趙雲を差し置いて魏延を重用したということなのですから、いかに魏延の才覚が評価されていたかが分かるというもの。

そして上記の活躍を見るに、魏延は劉備の期待に十分に応えたと言えます。

では、そんな彼がいかにしてあのような悲惨な末路を辿ってしまったのか・・・その経緯を追っていきましょう。

 

魏延の最期は「自業自得」なのか「ハメられた」のか

魏延の死までの経緯を簡単にまとめてみましょう。

 

はじまりは234年、諸葛亮が病死したころです。

諸葛亮は生前、魏延の処理についてこう遺言していました。

「私が死んだあとは全軍撤退、魏延に命じて追撃を防がせること。もし魏延が従わないなら置き去りにせよ」

諸葛亮死後、彼の予想通り魏延は「制御不能」になります。

 

諸葛亮死後、費禕の口から「北伐中止」を知った魏延は反発。

特に魏延にとって気に入らなかったのは、仲の悪い楊儀の指揮下に自分が入らねばならないことでした。

「撤退などとんでもない、自分が総大将として北伐を続行すべし」と譲りません。

そんな魏延の態度を費禕の報告で聞いた楊儀・姜維らは「知ってた」とばかり、魏延を置き去りにして退却を開始。

怒った魏延は道を封鎖して軍の帰還を妨害し、劉禅に「楊儀のヤツ反逆してますよ!」と上表するなどの暴挙に出ます。

しかし、首都に残った蜀の首脳は当然ながら魏延を信じず、さらに王平が魏延の軍に

「丞相のご遺体も冷めぬうちに、お前らはどの面を下げてこんな事をするのか!(意訳)」

と呼びかけます。

偉大な諸葛亮の名を持ち出されてしまい、もともと戦意の低かった魏延の軍は逃亡・投降が相次ぎ完全に崩壊。

兵を失った魏延は逃げる途中で馬岱らの追撃隊に捕縛され、斬られました。

 

やっぱり自業自得だけど、魏延なりに頑張ろうとはしていた?

上記の死に方を見ていると。

「正真正銘大黒柱だった諸葛亮が死んではもう戦が続けられないと言って撤退しようとする蜀軍の退却を妨害し、あげく完全な反逆行為をやらかして失脚した」

ということなのでやはり自業自得といえば自業自得と言わざるを得ないでしょう。

現に、彼の死を「蜀に対する謀反の意図はない」と弁護した陳寿も「自業自得」という意味のコメントで締めくくっています。

しかし重要なのは、魏延が撤退に反対した理由は、彼自身の発言を信じるならばあくまで「魏軍を倒しもせず撤退などふざけるな、丞相が死んでも俺が指揮を取ればいい」だったということです。

そういう意味では、魏延は魏延なりに劉備や諸葛亮の遺志を継ごう・・・と考えていたのかも知れません。

先ほどちらっと申しました「陳寿が考えた魏延反逆の理由」についてもう少し詳しく説明しますと、以下の通りです。

  • 「魏延がこんな暴挙に出たのは、政敵である楊儀らを失脚させようとしたからではないか」
  • 「彼らがいなくなれば自分が諸葛亮の後継者に指名されるんじゃね?という意図から彼はあの行動を起こしただけで、国そのものを裏切ろうとしたわけじゃない」

というように、「反逆ではなくどっちかというと内ゲバ」というような見解を陳寿は示しています。

私も特にこの点は(あくまで陳寿の考えの範囲ではありますが)異論ありません。

楊儀らが大嫌いだったことには違いないものの、彼の行動には「北伐続行のため」という一貫性(?)はあります。

よって、彼が蜀へ今更反逆を企てていたことはまずないと考えますし、魏延は魏延なりに北伐の遺志を継ごうと頑張っていた・・・という見方もできるかもしれません。

少なくとも魏延はこれまで蜀や皇帝・劉禅に対しては一切反逆の意図を持ったことはなく、忠実に仕事をこなしていたと言えます。

・・・ただし、彼が忠実なのはあくまで劉備とその遺志である北伐で、それ以外のことは少なくとも目に入っていなかったのでしょうか。

そこが彼が「勇将」ではあっても「トップ」には立てなかった理由というか、限界だった気もします。

国の命運を賭けた大戦の最中に同僚と衝突すること自体だいぶ問題(袁紹軍が良い例)ですし、「反逆のつもりはない」などといっても、そもそも撤退妨害や虚偽報告は立派な反逆行為で、これについては流石に弁明のしようがない。

・・・とまあ、そういう意味では魏延が非業の死を遂げてしまったのは仕方のないことなのですが。

ただ、魏延が諸葛亮や蜀漢帝国そのものに対して叛意を抱いていたとか、そういう「裏切り者」的なイメージは少しでも薄まれば幸いです。

どう言い繕っても「性格的に問題」はありましたが・・・。

そういえば「三国無双」でも魏延はあくまで「自分を取り立ててくれた劉備大好き」なキャラになっているとのことですが、上記のような逸話も参考にしていると考えると興味深いですね。

魏略での異説「魏延は無実」

なお、陳寿の「三国志」に対し注訳をつけた、お馴染み裴松之が魏延の死についての異説を載せています。

この説は、敵国である魏の書である「魏略」のものです。

「諸葛亮は病気になると、魏延らに向かって、自らの死後は自国の守りを固めるようにし、再度の出征を固く禁じた。そして魏延には自分の役目を代行させ、密かに遺体を持ち去るよう命じた。魏延は褒口に至ってはじめて諸葛亮の喪を発した。楊儀は魏延と不和だったため、魏延が軍の指揮を代行するのを見て、自身が殺されるのではないかと恐れていた。そこで魏延が軍もろとも北(魏)に寝返ろうとしていると噂を流し、軍を率いて魏延を攻撃した。魏延にはもともとそのようなつもりはなく、戦わずして軍が逃走したため、追撃を受けて殺された」

まとめると、

「魏延は諸葛亮の遺命に従って撤退を指揮していたが、楊儀にハメられて非業の死を遂げた」

という話になっており、完全に魏延は無実であったという解釈が載せられています。

これに関して、注を入れた裴松之本人が

「しょせん敵国で作られた憶測だし、本国の記述とどっちを信用すべきかは言うまでもないよね」

とバッサリ切り捨てています。

 

しかし可能性としては「ゼロ」とまでは言えません。

こんな説ができた理由はもっともらしく考えれば「名将の魏延を無実の罪で斬っちゃうとか蜀終わってるよね~!」というような感じで、魏軍が宣伝効果を狙ったもの・・・などが考えられるでしょう。

しかし逆に「自国の軍事的な主力である魏延を無実の罪で死なせたなんてありのまま記述するのは余りに世間体が悪く、政治的に不利だから、むしろ蜀側が事実を曲げた」ということも考えられなくはないです。

蜀漢側が事実を曲げて「魏延が悪いんだよ」ということにしたけど、魏には真相がバレていた・・・という可能性もあるわけで。

残念ながら今となっては真実は闇の中ですが、そういった見方もできなくはありません。

魏延の長安急襲策について

これまた魏延についてよく話題に上がる逸話の一つが、いわゆる北伐時に彼が進言したとされる「長安急襲策」です。

この作戦については今なお議論があり、

  • 「諸葛亮の正攻法では、むしろ兵力の劣る蜀はどんどん勝ち目が薄くなっていくのだから、たとえ一か八かでも決行しておくべきだった」

という意見もあれば、

  • 「魏延の急襲策は敵を侮りすぎだし、”敵が弱いはず”という希望的観測を前提としている時点で作戦としてはダメ」

という意見もあります。

双方とも一理あるので難しいところではありますが、もしこの「長安急襲作戦」が決行されていたらどうなったか・・・という部分もまたいずれ真剣に考えてみたいと思います。

ただ、双方の立場を考えれば結論を出すのは難しいです。

諸葛亮も、国を預かる丞相という立場上博打的な戦法に打って出るかどうかはなかなか判断が難しかったでしょう。

まして蜀漢は、一度負けたくらいならいくらでも挽回できる魏に比べ、一度の大敗が必死こいて貯めた国力を枯渇させてしまいかねないほど地盤が貧弱。

まさにHP1のオワタ式ゲー(死語)を強いられていたわけで。馬謖の敗戦を見れば、たった一度の負けがどれほど痛手だったかがよくわかるというもの

そりゃあ慎重にもなるはずです。

 

一方、蜀が完全な勝利を得るには少なくとも関中の要である長安まで進撃することが最低条件になってくるわけですが。

へんぴな蜀から北上して、魏領に辿り着くまでには何か月という行軍を続けなければなりません。「ただの物資の輸送」ですら、蜀の存亡を賭けるレベルの大事業と化しており、国力をつぎ込みまくるほどの苦行です。

しかし、蜀軍が兵や物資をせっせと運んで「正攻法で魏と戦うぜ!」などとやっていたとしても、その間に魏はその国力・立地を背景にどんどん防備を固めてしまいます。

はっきり言って魏は「多少のミスをしても余裕」どころか「正面から戦う必要すらない」のです。

蜀がいくら堂々と進撃してきたところで、魏は守りを固めて追い返しさえしていれば、いずれ蜀軍は疲弊して撤退せざるを得ないわけですから、無理に戦う必要性などゼロ。

実際、曹真や司馬懿が「ガッチリ守りを固める」戦法を取ると諸葛亮もほぼ手が出せなかったことは史実が証明している通り。

確かに「博打で勝てるほど甘くはない」のですが、「正攻法で勝てる見込みの方がむしろ薄いんじゃないか」というレベルの末期状態が、蜀軍の置かれた状況だったわけです。

となれば、本気で勝とうと思えば犠牲覚悟で奇策に打って出る、魏の意表を突く。これしかなかったのではないでしょうか。

少なくとも、魏延はそう考えていたかも知れません。

 

実際、第一次北伐時は魏も北伐を予想しておらず、当初はかなり慌てていました。

魏の国内では「劉備が死んだ蜀なんぞ怖くない、何もできるわけねぇw」という意見が大勢を占め、まさか蜀漢(笑)ごときが総動員で北伐をしてくるなど全く予想外の出来事だったのです。

それゆえ、当初は魏の対応も遅れ、一部太守の奮戦がなければそのまま長安まで進撃されても不思議はありませんでした。

実際諸葛亮の作戦も登山家がやらかすまでは割と順調に進んでおり、魏領西の涼州は多くが蜀の傘下に入りました。

しかし、モタモタしていればどんどん状況は蜀にとって不利になるばかり。

まして蜀に必要なのは、守る魏軍のような「負けない戦い」ではなく、「勝つための戦い」なのです。

そのためには、正攻法ではどうしようもないから「魏の意表を突き続ける」以外に有効な方法があったとは私には思えないのです。

だから、魏が混乱しているうちにさらに「もう一撃」があれば・・・というのは私だけでなく、蜀推しであれば誰もが想像してしまうことではないでしょうか笑

魏延の長安急襲策(仮)は、確かに無謀でリスクも大きいです。

しかし「正攻法ではいずれどうやっても勝てなくなる蜀が勝てる唯一の可能性」でもあったのではないでしょうか。

しかし、諸葛亮を批判することはできません。

魏延の軍は今後の北伐の主力ですし、博打で投入して失うのはあまりにも痛すぎるのも確かです。長安を落としても、蜀には前途多難な「その後」が待ち構えているわけです。

「失敗したときにどうなるか」も含めて考え、判断しなければならないのが国政を預かる丞相、そして総司令官たる諸葛亮の辛いところ。

諸葛亮を責めることは少なくとも私にはできません。

しかし、この「長安急襲策」が果たしてどう転んだか・・・興味深いところではありますね。

暇孔明
暇孔明

実はこの魏延の進言した作戦、陳寿の「三国志」では「長安急襲」という名言はされていません。

「韓信(高祖劉邦に仕えた名将)のように、自ら兵1万を率いて本隊と別の道を通り、潼関(長安よりさらに東)で落ち合う」

としか書かれておりませんし、元ネタである「韓信の故事」もどういう作戦だったかはよく分かりません。

 

魏延と諸葛亮の関係

さて、よく言われる「魏延と諸葛亮不仲説」についてなのですが。

史実を見る限り、魏延は諸葛亮存命中は特に大きな軍令違反などは犯しておらず、諸葛亮も魏延を重用しています。

魏延がバチバチに対立していたのは、むしろ諸葛亮の側近だった楊儀であり、諸葛亮は両者の対立を嘆いていたほどには、魏延の能力も高く評価していたのです。

 

しかし「諸葛亮と仲が良いか悪いか」という二択で言えば、どちらかといえばあまり良くはなかったようです。

魏延は「諸葛亮が臆病なせいで能力を発揮できないと嘆いていた」と伝わりますし、多少なりとも対立があったことは事実。

ただ、魏延の性格的にこういう不満を口にしてしまう傾向は日常からあったようにも思いますし「諸葛亮が特別嫌いだからそう罵った」というわけでもないでしょう。

 

ただし、この魏延の発言は

  • 「諸葛亮が慎重すぎるために大胆な作戦が決行できず、自分の武勇が発揮できない」
  • 「諸葛亮が自分を(勝手に)恐れているために能力を発揮できない」

どちらの意味で解釈することもできるので、そういった考察も好きな方は色々調べてみるとよいでしょう。

ここでは突っ込みすぎると長くなるのでまた別の機会にでも(笑)

 

魏延vs楊儀の決着は・・・?

魏延が暴走した理由は、彼と仲が悪かった楊儀の存在も大きいです。

正史三国志で、魏延が死ぬほど嫌いだったのがこの楊儀と言っても過言ではありません。

楊儀は事務処理能力に優れ、兵站管理や財務処理など、軍政に欠かせない役割を諸葛亮から任されていた人物です。

しかし他人に遠慮しない性格で、諸将が恐れ敬遠している魏延に対してもただ一人憚らなかったと言われます。

・・・とここまで書くとちょっと楊儀格好いい!となりそうなのですが。

彼は他人を妬んで誹謗中傷をすることも多く、結果的にその口の悪さ、ないし軽さが原因で自害に追い込まれているので「直言の士」的なものでは決してありません。

また軍議の席では、喧嘩してキレた魏延に剣を突き付けられてガチ泣きするなど、情けない逸話も残っています。

ようは自分は口が悪くて平気で人を煽るくせに、相手が本気で怒るとビビるタイプという、人間性としてはお世辞にも立派な人物とは言えませんでした。

もちろん、魏延との仲は「最悪」です。

とはいえ、楊儀も能力的には諸葛亮から重用されており、一方で魏延の武勇も諸葛亮は重用していたので、二人の対立は諸葛亮にとっては頭の痛い問題でした。

諸葛亮が生きている間は周囲の取り成しもあって何とかやっていましたが、諸葛亮が死ぬと両者の対立は最悪の方向へ進んでいきます・・・。

諸葛亮死後の「政争」は楊儀の勝利?

結果的に、魏延は諸葛亮死後の楊儀らとの政争に敗れて死んでしまったのは既に述べた通りです。

魏延は「武将一筋」といった経歴で、蜀の官吏たちとのコネもなかったため誰も魏延に味方してくれることはありませんでした。

魏延の死後、彼の首級を届けられた楊儀は大はしゃぎで踏みつけながら

「この●ァッキン●野郎!もう二度と悪さできないのうwwwくやしいのうwww(超意訳)」

・・・と煽ったと言われます。

 

結果的に、魏延vs楊儀は「楊儀が勝った」と言えるかもしれませんが、上記の逸話はやはり小物臭が漂っているというか、かつて(物理的に)泣かされまくった相手の亡骸に対してイキり散らしている考えると・・・

あまりに情けない勝利宣言にも見えます(苦笑)

 

しかし、「関連人物」で紹介した通り楊儀は楊儀で結局失脚しちゃいました。

しかもその原因は「ライバルへの誹謗中傷」に加え「反逆を疑われるような発言」がもとになっているのですから皮肉にも、「楊儀の下につきたくない」「反逆的な行動」で失脚した魏延と同じような最期をたどる羽目になったのでした。

結局楊儀も「諸葛亮の後継者」にはなれなかったのです。

そういった意味で、「丞相の後を継いで自分が北伐する」と啖呵を切ったものの、粛清されて果たせなかった魏延と同じような末路を辿ったのでした。

結果的にはある意味「実質痛み分け」のような形になっている両者が、今もあの世で元気に(?)争っていることを祈るばかりです。

悪い言い方をすれば、楊儀も魏延も「デスクワーカーか武将か」という違いこそあれ「似た者同士」だったのかも知れません。

さらば魏延、そして蜀のその後

さて、魏延という個人の死がもたらした影響は「武官の本格的な枯渇」でした。

彼の死後、諸葛亮が指名した後継者は皆志半ばで倒れ、北伐は姜維のもとで続行されます。

しかし、魏延のような「猛将」を失った蜀は姜維らの活躍によってそれなりの戦果を挙げることはあっても、魏軍に決定的な打撃を加えることは結局できずじまいでした。

「魏延以後、彼に匹敵する猛将はいるか?」と考えると本気で思い浮かびません。

蜀漢の総司令官となった姜維はともかくとして、王平はかなり優秀な将でしたが、彼はどちらかと言うと「守りや負け戦に強いタイプ」の武将で、魏延とはややカテゴリーが違います。

馬岱も大した活躍をしないまま史書から姿を消し、諸葛亮が出師の表で「軍事は彼に聞け!」と指名までした向寵も、結局その実力の全貌は未知数のまま異民族との戦いで戦死しています。

他にも「有望な」武将は何人か挙げられても「勇猛無比な」武将は魏延以降ぱったりと途絶えてしまったのです・・・。

もっとも、それは蜀だけに限った問題ではなかったですし、時代が「猛将」の時代から変わってきたということもあるでしょう。

確かに魏延が仮に生きていても北伐がうまくいったわけではないでしょうし、後世の結果は大して変わらなかったかも知れません。

むしろ、暴走気味な彼が生きていればかえって蜀は混乱したかもしれませんしね・・・難しいところです。

しかし魏延という「打撃力」を失った蜀は、いよいよ何倍・何十倍もの兵力を持つ魏軍に対する攻め手を失ってしまったのでした・・・

そういう意味で魏延こそが「蜀漢最後の猛将」であり、その活躍には最大限の賛辞を贈るべきなのではないでしょうか。

 

というわけで、拙い文ながら最後まで読んでいただきお疲れ様でした!

そして、ありがとうございましたm( )m

おまけ

史実では粛清された魏延ですが、KOEIテクモゲーム・「三國志13PK」の戦記モードではなんと、魏延が最終的に姜維を認め、共に北伐へ挑むIFが見られます。

この魏延は、姜維の策で兵権を半分握らせて不満を抑えたおかげで暴走もせず、生き延びた・・・という展開なのですが、最初は劉禅のいる成都に居座って兵も管理しており、姜維のことも手伝ってくれません。

しかし、後である条件を満たすと「自分の限界」について自分なりに答えを見つけ、姜維に「この俺を使いこなせ!」と配下軍団に加わってくれます。

なお、このステージは同ゲームモードでも超面倒で難しいので、魏延ファンの貴方は頑張ってクリアしましょう!

⇒アフィリリンク「そんなものはない」

 

参考文献・参考サイト

>>ちくま「三国志」訳本

>>いつか書きたい三国志

>>俺的三国志( 旧天猿之三国志 )

そして、ツイッターで絡んでくださる皆様の考察

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