「直言の士」というのは、目上の相手や親しい相手に対しても恐れず忠言を行い、その人の行いを正すものです。
こういう人物は確かに貴重ですし、大事にすべきであることは間違いありません。
しかし、一見直言の士に見える人間にも、結構な確率で「偽物」も存在していると私は感じることも多いです。
今回ご紹介するのは李邈(リバク)という人物なのですが、
彼も確かに表面だけを見ればいわゆる「直言居士っぽさ」はあるのですが、実際はどうにもそう呼ぶには抵抗があるのでは・・・?という人物でして。
この李邈という男、マニアックな人物ではありますが、なかなか濃い人物で一部ではカルト的(もしくはネタ的)な人気があります。
そんな彼の何が凄いかというと、
- あの公明正大で知られる諸葛亮を怒らせ、左遷される
- あの人畜無害な劉禅を本気で怒らせ、ついには処刑される
・・・といったぐあいに「普段怒らない人物をマジ切れさせる」という快挙を二度もやってのけたことでしょう。
「怒らない人物を怒らせた」という点では、あの禰衡大先生の煽りスキルですら霞むレベルである。
まあ、ぶっちゃけると「それだけ」の人物なのですが^^;
が、その強烈な個性によって歴史に名を刻むことになったのが李邈なのです。
彼がどんな生涯を辿り、いかなる経緯で処刑されてしまったのか、追っていきたいと思います。
李邈の生涯と概略
プロフィール
姓名 | 李邈 |
字 | 漢南 |
出身 | 益州広漢郡郪県 |
生没年 | 西暦???~234年 |
主君 | 劉璋→劉備 |
正史略歴
劉璋の時代は牛鞞県の長。
先主の劉備は益州牧を兼任すると同時に、李邈を取り立てて従事に任命する。
しかし、劉備との初対面となった正月の席で、空気を読まずわざわざ劉璋を攻めたことを非難するような発言をし、ひんしゅくを買う。
大人な劉備は「私が劉璋を攻めたのがそんなに許せないなら、君はどうして彼を助けなかったのだ」と皮肉ると、李邈は「助けようとしなかったわけではありません。力不足だっただけです」と、よく分からない言い訳をする。
劉備の代わりに激怒した官吏に処刑されそうになるところを、諸葛亮に救われ犍為太守、丞相参軍、安漢将軍に取り立てられる。
が、劉備死後の第一次北伐で失態を犯した馬謖を斬ろうとする諸葛亮を、また空気を読まずに批判。
個人的な怒りで誰かを更迭したことのない諸葛亮すら相当頭に来たようで、結果軍務から外される羽目になった。
その諸葛亮が死んだ後、三日間の喪に服していた後主・劉禅の前でまたもや空気を読まず、諸葛亮をもはや「侮辱」とも呼べる言葉で痛烈に批判。
本気で「立腹」した劉禅により即座に獄に下され、処刑された。
李邈自身は「李氏の三龍」と呼ばれた李朝・李邵の兄だが、他に名前が不明で夭折した末弟が一人おり、陳寿と裴松之は李朝・李邵とこの末弟を「三龍」にカウントするとしている。
三国志注者の裴松之は彼について、「李邈の度を越した率直さでは、三龍に数えるのは無理であろう」と皮肉っている。
李邈と他の人物との関係
諸葛亮
処刑されそうになった李邈を弁護し、北伐では役職まで与えて活躍の場を与えてくれた恩人・・・だったのだが、馬謖の処刑を悩む彼を、故事を引き合いに出して「助命すべき」と進言したことで不興を買う。
これだけならまだ良かったが、李邈はどうやらこのことを恨んでいたらしい。
諸葛亮が死んだ後、李邈は亡き諸葛亮のことを、粛清された有力一族である前漢の呂氏や霍氏を引き合いに出しつつ「粛清されたことに同情の余地がある彼らよりはるかに悪質だ」とボロクソに非難。
さらに「自分は諸葛亮の専横をいつも密かに危ぶんでいたのだ」と、文字通りの「事後諸葛亮」な主張をする。
この発言が劉禅の逆鱗に触れ、李邈という男の命取りとなった。
劉備
初対面でいきなり劉璋のことで李邈から詰られまくった。
劉備が「私が劉璋を攻めたのがそんなに許せないなら、君はどうして彼を助けなかったのだ」と皮肉ると、李邈は「助けようとしなかったわけではありません。力不足だっただけです」と語る。
しかし、劉循や張任らのように劣勢に屈せず頑強に抵抗した者、あるいは黄権らのように最後まで劉備を警戒して諫言し続けた忠臣を大勢知っているであろう劉備にとっては片腹痛い言い訳であったろう。
劉備自身のその後のリアクションは不明だが、担当官吏はそのデカい態度にブチ切れて李邈を処刑しようとする。諸葛亮のとりなしでその場は収まった。
劉禅
李邈の諸葛亮批判に対して、文字通り史書に残る最初で最後の本気の怒りを見せて李邈を処刑。
彼ですら本気で怒らせたことが李邈という人物の「スゴ味」み表している・・・多分。
李朝・李邵ともう一人の弟
「李氏の三龍」と呼ばれ、賢才と評価が高かった李邈の弟達。
お察しであろうが、彼ら三人の兄である李邈はこの「三龍」にはカウントされておらず、同じ国に仕えていたのに「四龍」でもない。
この「三龍」の末弟の名は不明ながら、少なくとも陳寿も裴松之もこの「三龍」に李邈がカウントされず、名が不明なこの弟のことを指しているのだという見解は一致している。
三国志注を付けた裴松之からも「李邈の“バカ”が付くほどの率直さじゃ、三龍に並べる器とはとても思えんよな(意訳)」と辛辣なコメントを残されている。
兄よりすぐれた弟なぞ存在しねぇ!!
崔琰
別に李邈との接点は全くない。
だが、冀州の戸籍を調べて「冀州でかいな!30万の軍兵を手に入れられそうだ!」と単に感想を述べただけの曹操に対し、ここぞとばかり「戦乱に苦しむ民の気持ちをまず思いやるべきなのに、なぜ軍勢の話をするのですか?」という若干理不尽な正論で突如殴りかかった点が、李邈と少し似ている。
人材マニアであり、民の心を掴む方法を心得ている曹操はしおらしく謝罪し、その場は収まったものの、周囲の将兵は皆ヒヤヒヤしていたという。
人材発掘の実力は確かで、評価の低かった人物に積極的に目をかけて才能を見出し、彼らは後に三公に昇っているなど決して口だけの人物ではない。
ただし、清廉すぎる性格が仇となって敵も多かったようで、最後は讒言によって投獄され、曹操の手で処刑された。
孔融
同じく、別に李邈との接点は全くない。
だが「納得いかないことがあると、故事に喩えて厳しく批判する」「当てつけがましい正論で曹操を常々イラつかせていた」という記述が李邈とよく似ている。
そんな彼でも「建安七子」のメンバーであり、為政者としての評価はともかく、文学者としては一流であった。
しかし、その口の悪さにとうとう堪忍袋の緒が切れた曹操により、妻子もろとも処刑された。
才能があっても、(李邈のように)要らぬことを言いすぎる人物が最終的にどうなるか、身をもって示したくれたと言えるだろう。
独断と偏見で語る「李邈」
さて、この李邈という人物だが・・・
正直ほとんど語ることもない。
特に優れた治績や武功を上げたわけでもなく、ただ、要所要所で要らぬことを言い、それを繰り返していたらとうとう普段怒らない人物まで怒らせて処刑される羽目になった・・・というだけの人物だからだ。
しかし、公正な諸葛亮や、感情が死んでいたとすら思える劉禅までもが李邈には本気で怒った。
ただその一点がネタにされている。
・・・
・・・・・
いや・・・本当にもう語ることがないのだ・・・。
クソリプマンか、直言の士か
敢えて、私が彼について感じたことを述べるなら・・・
猛烈な「既視感」である。
李邈の言葉は、一応故事や根拠がある。
言葉だけを聞けばもっともらしい正論かも知れない。
「でも、この状況でそれを言う!?」
「それを、わざわざ相手に言っちゃう!?」
「当事者の苦悩も知らず、なんでそれが言えちゃう!?」
むむむ・・・?
どうにも、どこかで見たタイプの人種です。
昨今、SNSでは色々な人が自己発信をしています。
誰かが悲しんだ、喜んだ、怒った。
様々な出来事や、それに対する人々の感情が流れてきます。
SNSを使っている大抵の人は、
そういった相手の心や思いをちゃんと察して、
「これは嬉しいよね」とか、
「この人も悩んでいるんだな」とか、
「自分が同じ立場だったら確かに難しいよな」とか、
「これ言いたいけど、そういうことを言っていい状況じゃないよな」とか、
一緒に喜んだり、
慰め励ましたり、
共感して怒ったり、
笑ったりします。
が、そこには必ず・・・
特に多くの人々に注目され、影響力のある人ほど
「絶対避けられない」といっても良いほど、
ある種の人間達がその目の前に現れます。
それがいわゆる「クソリプしてくる人」です。
だいたい↓の画像にどういうものかまとめられているので、
「あー、あるある」と笑って見ていただければよいでしょう。
こうした「クソリプ」の特徴として、
そうした「クソリプ」の内容はなるほど、
「正論」または「一理ある」内容と言えないこともない。
感情的になっている主君や上司に敢えて正論をぶつけ、客観的な視点をもたらしてくれる人物は「クソリプ野郎」ではなく「直言の士」としてむしろ尊重されるべきものでしょう。
しかし、李邈という人物を「直言の士」と呼ぶべきなのでしょうか?
・・・私には、どうにもそうは思えません。
むしろ先に述べた「クソリプマン」に限りなく近い。
「でも、それ今言っちゃう?」
「それを、君が言うか???」
「それを、わざわざ言って意味ある????」
クソリプとは、こういった「意味のない」「ただ相手を傷つけ、怒らせることだけが目的」としか思えないようなもの・・・
私の「クソリプ」に対する定義はそんな感じですが、どうにも李邈という人物からもそんな「クソリプマン」と同じ香りがするのです。
実際、戦国時代の毛遂や商鞅のように、敢えて無礼な言動やビッグマウスでパトロンとしたい人物の気を引くというのは、昔からの伝統的手法ではありました。
・・・ただ、成功した彼らが「自分ならもっと状況をできる自信がある前提での、耳に痛い正論」でパトロンからの信頼を得たのに対し、李邈の正論とは
「それ、今言っちゃう?」
「それを、君が言うか???」
「それを、わざわざ言って意味があるのか????」
・・・とでも言わざるを得ない、あまりにも「どうしようもない」発言ばかりでした。
特に、諸葛亮が馬謖を処刑したことは現代に至ってもなおその是非について激論が交わされる難しい事例であり、諸葛亮自身も「軍法」「馬謖の将来性」「自身の人選ミス」「自身の愛情」あらゆる要素を天秤にかけ、馬謖の処刑を処刑すべきか悩みまくっていたはずです。
さらに、蜀志『向朗伝』では馬謖が逃亡を図ったことも示唆されており、処刑せざるを得なくなった決定的要因はこれだったとも。
人材不足で主力の高齢化も進む自軍にとって、まだ比較的若く可能性のある馬謖を斬るのは惜しい、経験さえ積めば化ける可能性もある。
そもそも馬謖の失態は実戦経験のない彼に任せた自分の責任でもあるし、それを棚上げして馬謖を斬ればかえって筋が通らないのでは・・・?
かといって処罰もしないなら、それは諸将から「身内人事」と言われても仕方ない。
どうするのが正解なのか。
諸葛亮の苦悩は察するに余りあるでしょう。
それを、李邈は全く状況が違う故事を引いて、
「春秋時代に秦は敗軍の将・孟明視を赦したおかげで西戎を制圧でき、楚は子玉を誅殺したため、二代にわたって振るわなかったのです」
ともっともらしく諸葛亮を諫めます。
ですが、馬謖の処罰は先にも述べたように蜀の将来、軍法違反、その違反者を罰しないことによる諸将の反応、自身への信頼残高・・・
ありとあらゆる問題が複雑に絡み合った「難しい判断」であり、それを一切考慮せず、現在とは全く状況の違う過去の事例を出されても、故事にも詳しい諸葛亮にしてみれば、
「んなこと知っとるわい!そういう問題で片付くことじゃないから悩んでんだろ!!!」
と、イラついても仕方ないでしょう。
実際、李邈はただ上記の発言をするだけして、諸葛亮の悩みを解消するようなユニークな解決案を出したわけでもなく、本当にただ言いたいことを言って終わりです。
また、劉備の蜀攻略を責めた件についても、恐らく黄権のように劉璋を諫め続けたわけでも、張任や厳顔、劉循のように頑強に抵抗したわけでもなかったであろう彼が、「今更」というタイミングで意味もなく劉備を批判したのです。
もちろん、ただ言いたいことを言っただけで慢心する劉備に統治者としての心得を説いたとか、今後の政策を提言した・・・等でもありません。
本当にただ「言いたいことを言っただけ」。
龐統との喧嘩でこの手の話題には慣れていたであろう劉備は「じゃあお前なんでそのご主君を助けなかったんだね?」と皮肉るのみに留まりましたが、劉備が李邈に好意を持たなかったことは確かでしょう。
このように、李邈の発言は「意味のない正論」ばかりに感じられます。
先にも申した通り、「敢えて」空気を読まず、相手を怒らせることを言い、正論を相手にぶつけること自体は必ずしも悪い事ではありません。
自分の主君が浮かれたり、焦ったりしているとき、敢えてそういう言葉をぶつけることで頭が冷えることもあります。
自分を侮っていた相手に耳を傾けさせる手法としても有効です。
そういった「計算ずく」で相手を怒らせているとか、そういった意図が感じられるのならよいのですが、李邈の場合「意味もなく相手を怒らせる」言動があまりにも多かった。
それが、致命的でした。
兄弟と、劣等感
個人的な見解・・・ではあるものの、私が李邈の言動から何となく感じるのは「劣等感」あるいは「焦り」です。
彼自身も決して無能ではなかったと思われますが、裴松之のいう「度を越した率直さ」はさぞ周囲から嫌われたはずで。
名声が高かった弟達と比較されることもあったでしょう。
なかなか評価されず、その機会にも人にも恵まれず、一方で順調に名声を得ていく弟達。
そんな境遇が何年も続けば、焦りが出てくるのも不思議ではありません。
大昔の人物の心情を察するのは困難ではありますし意味もないかも知れないのですが、私が李邈の言動から感じたのはそういう焦りです。
ぶっちゃけ、彼の「クソリプマン」ぶりは割と昔からの性質だったと思わなくもないですが、それでも彼の言動を擁護するなら・・・
不遇の彼が「目立つ」「評価される」手段として選んだのがこの「ズバズバモノを言う」キャラだったのではないでしょうか。
ですが、先にも言ったように「ズバズバモノを言う」キャラは、あくまでそれを言えるだけの実力や、優れた腹案を持っていて、それを聞いてもらいたい場合に有効なだけに過ぎません。
ただ、意味もなく人を怒らせるだけでは何の意味もありません。
無意味に人を怒らせた、その後に待っているのは「賢者として認められる」未来ではなく、ただ嫌われ排除される未来である・・・ということは彼の末路が示す通り。
そこに思い至らなかった時点で、やはり李邈という人物には「限界」があったのかな、というのは正直感じるところです。
李邈の死とその後
そんな李邈ですが、諸葛亮の死後、とうとうあの温和、あるいは無感情な劉禅を本気で怒らせて処刑されます。
その時の言葉は、
以下超意訳。
「※呂禄や霍禹(いずれも専横を振るったことで粛清された一族)は、その専横のために逆臣として誅殺されましたが、彼らは周囲が必要以上に警戒したせいで誅殺されたからまだ同情の余地がありますよね。
でも、それに比べて諸葛亮のヤツは明らかに兵権を握って、完全に国を乗っ取ろうと企んでましたよね!こんな奴を外に出すなんて私はヤバいと思ってたんですよ!
でも今こうして諸葛亮が死んだのは、陛下の一族は安泰ですし、西戎は戦火がなくなってようやく安心ということですな!そんな逆賊野郎の喪に服すなんてとんでもない、逆にこれは祝うべき事でしょう!」
※呂禄は、「人ブタ事件」などで悪名高い呂太后の一族として、霍禹は暗君を廃して前漢を立て直した霍光の子として、それぞれ専横を極めたことで粛清されました。
つまり、李邈は「彼らの専横よりなお悪質」として諸葛亮を非難したわけです。
・・・とまあ、こんな感じのことを喪中の劉禅に言い放ったわけですが・・・。
この発言で完全にかの劉禅陛下も激怒し、即座に李邈を投獄し、処刑してしまいました。
諸葛亮の死後、わざわざ衆目の前で諸葛亮を侮辱して劉禅を本気で怒らせたことは、傍から見れば
- 「自分を罷免した諸葛亮への私怨」
- 「諸葛亮が死んだのを幸いに自分に目を引こうとしている」
などと見られても仕方のない行為です。
まして、劉禅にとって諸葛亮とは「頭の上がらない存在」であると同時に「誘拐事件から自分を救い、また長年自分の代わりに蜀漢を支えてくれた大恩人」でもあったはずで、それを罵倒するのは、相手が普段温和な劉禅陛下とはいえ、あまりにも無謀でした。
劉禅陛下が、本気で怒ったのは後にも先にもこの事件だけでしょう。
ある意味、李邈は劉禅の眠っていた感情を呼び起こした男・・・と言えるかもしれません。
が、結局この行動のせいで、李邈は特に何も成すこともなく、意味もなく生涯を終えます。
そんな李邈の名は「あの劉禅を怒らせた男」「なんかいつも誰か怒らせている男」としては残りましたが、彼がそのような形で名を遺したことは果たして望まない屈辱か。
あるいは、目上の連中に言いたいことを言って、案外満足な生涯だったのか。
少なくとも、歴史的な意義は全くなく、彼の死が国を傾けたとか、誰かが覚醒したとか、そういった影響は全くなかったと言えます。
・・・李邈の記事らしく言いたいこと言うだけ言いながら、特にオチもまとめ方も思いつかないので、これにて李邈の紹介は終わりです。
ここまでお読みいただきありがとうございました( ー茶ー) _旦~~
参考文献・参考サイト
そして、ツイッターで絡んでくださる皆様の考察
コメント